
『2−Dいくね』
ブブブ、と鈍い音をたててスマートフォンが揺れた。色のない、たった6文字のラブコール。ホーム画面に表示された通知だけ見てそのまま閉じる。あーあ。絵文字ぜんぜん使わないとことかすっげーすき。落書きだらけの机に突っ伏して、だらしなく緩む頬を隠した。見てるやつなんて誰もいないのにね。さっきまで騒がしかった期末テスト前日の教室は、早く帰って勉強するようにという担任の鶴の一声で誰一人残ってはいなかった。みんなそろって真面目か?それとも馬鹿か?
空は真っ青。HRはいつもより早く終わって夕暮れまではまだまだ時間があるのに、部活はない。こんな日にとっとと帰って勉強するなんて馬鹿のやることだ。なんて、こんなこと言ってると絶対また副部長に殴られるけど。ぜったい。こんなに天気いいのに、部活のない放課後。教室でひとり彼女を待つ時間。奇跡か?最高か?
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「あーかや、おまたせ」
「せんぱい」
開けっ放しのドアから窓に向かって吹き抜けた風が運ぶ、いまだ慣れない甘いにおい。廊下から顔をのぞかせて、ふにゃりと笑った彼女は小さく手を振っている。夏だというのにまっしろな、小さな手。
「ね、この教室あつくない?」
「あー、おとといから冷房調子悪くて」
えーそうなの?かわいそう。彼女は腕だけを教室の中にいれてかき混ぜながら、ちっとも憐れんでなどいないような声でそうつぶやいた。白い半袖を一折した不真面目な袖口から伸びる淡く細い腕が空を掻く。その度に風にのる、手首の内側に忍ばせた彼女のにおい。普段この教室にはない、非日常の香りだ。
「
さん、入んないの?」
「はいっていいの?」
「当たり前じゃん、だって先輩でしょ」
なにそれ、と笑った顔が最高にかわいくて、先に惚れてしまったじぶんの方がいつだって負かされていると思い知る。「2−Dなつかしい」と言いながらこちらに近づいてくる
さんの上履きが奏でるリズム。華奢な手首でシャラリ、とゆれる繊細なつくりのブレスレット。このひとの何もかもが、さっきまで机を並べていた同級の女子たちとまったく違っていて、違うということを認識することで俺はまたこのひとに負けてゆく。
「赤也の席ここ?」
「うん」
「あ、テスト前なのに机の中いっぱい」
水色のキラキラで彩られた指先が、机の上に書かれた意味のないぐるぐるをなぞって揺れる。その輝きはどこか安っぽくて、でも舐めたらめちゃくちゃに甘そう。なんて、そんなはずはないんだけど。そしてその指がまったく似ていない英語教師の似顔絵のところでとまって、落書きなんて書いちゃってかわいーなんていうからムッとした。こうやってこの人はすぐに俺のことを可愛いと形容する。ね、俺いちおう、恰好つけたいお年頃なんだけど?
たとえば、このとてつもなく広い校舎のなかで、週に一度か二度、奇跡的にすれ違うとき。水族館でお気に入りの熱帯魚を見つけたみたいに、彼女が遠くからこちらを指さして微笑む。待ってましたと俺が大声で彼女の名前を呼べば、いつも一緒にいる、彼女とよく似たいでたちの女子たちに「かわいいでしょ、わたしの彼」と。そうして段々と近づいていき、こちら側にいるクラスメイトたちが、くすくすと笑う三年女子のかたまりに聞こえるか聞こえないかの声で会釈する。俺の世界と彼女の世界が一瞬、まじる。そのまま俺たちは、けっして、それ以上おたがいに踏み込まずその場を離れてゆく。その後にふりそそぐ馬鹿な野郎どもの冷やかしをうける愉悦といったらない。
「せんぱい、隣すわってよ」
普段、クラスの中心にいる朗らかな女子が座る席。左隣の椅子を引くと、どうやったのか、みんなより少し短くした巻きスカートを気にしながら
さんは浅く腰かけた。あらわになった腿に嫌でも目がいく。やばい。めちゃくちゃ触りたい。その上、「2年D組
です」なんてふざけるから、淡いピンクにきらめく唇がまぶしくてたまらない。行儀悪く頬杖をついてこちら側を向いた彼女の背負う快晴に目が眩んだ。そんな不真面目な姿勢のまま、けだるげに右手が上がる。
「せんせー、きりはらくんが寝てまーす」
「あ、ひでー!」
怠惰な喋り方、テスト前だというのに隙のないメイク、ゆるく巻かれたほんのり茶色の髪。一年多くこの場所で過ごしている余裕。クラスの女子がいつも呼ぶじぶんの苗字すら、このひとが呼ぶと違う。くすぐったくて、あまったるくて、ちょっとせつない。一学年しか違わないのに、ぜんぜんちがう。彼女に一目惚れしたあの日から、彼女が俺のガキくさい告白を掬い取ったあの日から、俺たちの距離はすこしも縮まらない。物理的な距離なら、もうなんどだってゼロにしてるのに。
ゆっくりと立ち上がって、クラスメイトごっこが気に入ったらしい先輩を机越しに見下ろせば「きりはらくんどうしたの?」と。計算しつくされた上目を使われると俺はもうイチコロだ。なんて簡単な男。机に両手をついて、彼女を追い詰める。そして至極当然というように唇が重なって、わざとらしくちゃちなリップ音がなった。「あーこんなとこでキスしていけないんだ」とか言いながら、目の前に下がるネクタイを弄ぶなんて、反則にもほどがありません?ちゅ、ちゅ、ちゅ、と三度甘やかな音を奏でたところで、遠くの廊下からぱたぱたと忙しない足音が聞こえてきた。
「あ、やば」
「せんぱいこっち」
いうが早いか、彼女の手首を掴んで窓際へ。バルコニーにつながる窓に腰かけて、クリーム色のカーテンをひいた。
「あかや?」
「しー、
さん脚こっちのせて」
ふたりしてカーテンにくるまって、おふざけ半分で息をひそめる。わざとらしく唇の前にたてた人差し指がくすぐったい。彼女の細い肩を後ろから抱いていると、少しでも力を込めたら壊れてしまいそうなくらいに薄かった。汗ばんだ肌が重なる部分が暑くるしいはずなのに、なぜかシャツに覆われた背中が粟立っていく。やべー。このまま壊しちゃいたい。いいにおいするし。肌すべすべだし。ていうか、このひとなんでベスト着てねんだ。
カーテンの向こう側で、いくつかの足音が近づいてきて、とまった。
「あれ、わたしの机誰かの鞄ある?」
「え、ほんとだ。あ、切原もまだ帰ってないじゃんね」
「ね、机汚いまんま」
左隣の女子の声だった。もうひとりはたしか、後ろの後ろの女子。
さんが一瞬まずい、という顔をしたのを俺は見逃さなかった。彼女のスクールバッグは、どう見ても俺のクラスのやつのじゃない。くたくたで、ぺしゃんこで、すこしほつれてる。しかも、ほんのり甘いにおいがして、ちょっと不細工なチャームもついていて、あきらかに、
「なんかこれ女子っぽい」
「えーこわーい、誰の?」
「うーん。でもまあいいよ、どうせあした席変わるし。いこいこ」
「あ、英和辞典あった?」
「うん」
テストやだなーという声とともに上履きの音が遠ざかっていく。
さんがほっとしたようにひとつ息をついた。呼吸の振動も全部、シャツ二枚しかない隔たりをかんたんに超えて伝わってくる。力を抜いたからか、緩やかに重心がこちらに傾いた。「どきどきしたね」身を委ねたまま、彼女がそうつぶやく。正直俺は、いまがいちばんどきどきしてるけど。このくそ暑いのに、こんなところでなにやってるんだろう。だって、下級生のクラスに入っちゃいけないなんて決まりはもちろんないし、別に隠れる必要なんて本当は一ミリもなかった。といってもまあ、ちょっとばかしやましいことはしてたから、やっぱり一ミリくらいはあったのかも知れないか。
バサ、と大きくなびかせてふたりを隠すカーテンを外すと、
さんがちいさく咳込んだ。
「あ、ごめん。
さん、だいじょうぶ?」
「ん、だいじょぶ。それより暑かったー」
そういって先輩は顔の前で両手をパタパタと動かした。肩を抱いたままの距離、その弱々しい風にのってまたあの甘いにおいが香った。だあもう!すきすぎる、とてつもなく。
さんから香るそのにおいにどうしようもなくなって、ネクタイを緩めた無防備な首元に顔をうずめた。瞬間、「こらー」とちっとも怖くない声が聞こえて、頭のてっぺんにげんこつが降ってくる。いままでに経験したことのないような、こそばゆいげんこつだった。だめだこのひと、かわいすぎる。
「
さん、汗かいてんのにすげーいいにおい」
暑いあついと言いながら、乱れた髪をひとつにまとめて左側に流すので、あいた剥き出しの右側に鼻を近づけて鳴らしたら、ふたたびあのげんこつが降ってきた。ぞくり、言い知れぬこそばゆさが背筋を伝って腰のあたりまで駆けおりてゆく。あーもう、やばい。理性とか、我慢とか、そうゆうのぜんぶどっかいっちまいそう。
彼女がめずらしく恥ずかしがっているみたいだったので、そのまま首筋へダイブ。しっとりとした感触を確かめるようになぞったら、耳元で甘やかな笑い声がした。
「ちょっと、くすぐったいんだけど?」
「うそ、すきなくせに」
「もう、むちゃくちゃなんだか、」
ら、を飲み込んで、言葉の隙間から惑う舌を探した。このひとから生まれるすべてを逃したくなかった。照れた吐息も、流れる汗も、上昇してゆく体温も。つかの間のおふざけは、この日射しと暑さに乗じて赦してほしい。
突き刺さるような日射しがふたりに降り注いでいた。夏の放課後。こめかみを一滴の汗が伝って、彼女のむきだしの膝にぽとり、と。
「ね、おなじ教室にせんぱいがいるの、やばい」
「すっごいコーフンする」