この子は、卒業式前日のわたしの感傷をぜんぶひとりで飲み干そうとしている。
 冬というには暖かく、春というには肌寒い、どっちつかずの空気を含んでカーテンが揺れた。何度目かのふたりきりの教室で、恋人の指先がゆっくりと頬を撫でていく。眼前で艶めく大きくて黒い瞳のなかに映る自分は、ひどく戸惑っているように見えた。

「ね、まって…あかや、」
「なんで?」
「あな、あく…そんな見られたら」
「だめ?」

 この瞳を覗き込んでいるといやでも想い出す。決壊して、溢れてしまう。
 一瞬で距離を詰める言葉尻、照れ隠しのなかったまっすぐの告白、一握りの余裕さえないファーストキス。灼けた肌と、彼をひとつおとなにした夏。はじめてすべてをゆるした、晩秋の放課後のこと。
 しょうもない口喧嘩をしたことなら数え切れないほどある。どうにもならない嫉妬をしてみたり、この恋を放り出したくなってしまったこともある。そんな、数え上げれば果てのないふたりのすべてを、彼の瞳は見てきた。わたしがそれをこの目で、身体で、確かめてきたのとおんなしように。
 あなたがわたしにすることに、だめなことなど何ひとつない。そんなこと、言わなくてもきっと、この子はわかっているだろう。そうでなきゃ、こんなに乱暴なまなざしを向けられるはずがない。

「録画してんの、いま、せんぱいのこと。いつでも好きに思い出せるように」

 そんなことを囁いて、赤也はこの瞬間のすべてを保存するように、おおげさな瞬きを二回した。頬に触れていた手はそのまま好き勝手をして、首筋から喉元へ、下へ下へと伝ってゆく。甘い戯れの末、いま彼の手中にあるのはネクタイの先だけなのに、わたしはまるで金縛りにあったみたいに指の一本さえも動かせなくなっていた。ああ、喉が、焼けるようにあつい。
 この場所に彼を置いてゆくのはまぎれもなくわたしの方であるはずなのに、まるでこちらが置いてきぼりにされてしまうような切なさが、わたしの心をきつく支配している。そしてその切なさは、身体のなかを余すところなく循環してゆく。
 茜色に染まった癖っ毛がむきだしの額に触れた。

「だってさ、もうきょうで終わりじゃん」
「終わりって…」

 哀しみもない、焦りもない、怒りもない、ただ、真剣で一途な視線をいっしんに向けられている。わたしの卒業は、別に遠く離れてゆくものなんかじゃない。みんな一緒にすぐ隣の敷地にうつるだけで、続いてゆく日常はこれまでとほとんど変わらない。わたしたちの関係だって、明日を境に、突然変わってしまうはずもない。
 それなのに、わたしを映し出す赤也の濡れた瞳を見つめていると、わたしたちはもう二度とあえなくなってしまうような、とりとめのない不安がやってくる。そんなはずはないでしょう?でも、涙がじりじりとせり上がってきて、どうにもこうにも留め置けない。
 わたしの首元に下がるものが、自分のイニシャルが縫い付けられたネクタイであることを確かめて、赤也の指先はゆっくりとそれを放った。三年間で見飽きてしまったストライプが、ふたりのあいだをいったりきたり、揺れている。

「終わりだよ。もう二度と、せんぱいのいるこの教室にはこらんない」

 間近で囁かれた赤也の声が、一直線にわたしの胸を貫いた。溢れる涙を掬った唇が、しずかにふたりの息を塞ぐ。一瞬が永遠になる。そんな錯覚を、彼の仕草は何度だって与えてくれた。
 触れた温度が自分のものとちがっている幸福をしっかりと噛み締めてわたしは、そのすべてを閉じ込めるためにゆっくりと瞳を閉じた。この底知れない感情を、この身を焦がすあまい恋の痛みを、いつか、忘れてしまう日がくるのかな。
 ほんとうは、きょう一度きりのあなたを、わたしの春と呼べたらいい。
 この教室に本物の春がやってきても、いつまでも、ずっと。


きみの青色


200624......春のすべて
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