遠くでチャイムの音が聞こえた。かすかに漂う薬品の匂い。頭と身体にうっすらと残る怠さ。あ、やっちゃったな、これ。ぼんやりとする意識の中でそんなことを思った。瞼の向こう側が明るいのを感じて、ゆっくりと目を開ける。瞬きを二回したところで、視界の端に鮮やかな赤をみつけた。
「あ、れ、…岳人?」
右側を向いたら、ベッドの端に憮然とした表情で頬杖をつくこいびとの姿。そうだ。さっきまでの体育はとなりのクラスと合同だったんだ。不機嫌そうに唇を結んでいる彼を見て、少しずつ記憶が呼び起されてゆく。隣のコートでは男子がサッカーをしていた。わたしは、その中心で揺れるプラムレッドをぼんやりと見ていた。そして、まだまだ暑い日差しを避けようと木陰に入った。ところまでは覚えてる。
ゆっくり身体を起こして彼に向きなおると、男子にしては長い睫毛に縁どられたおおきな瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。不機嫌なままの唇がひらいてく。
「おまえ、ちゃんと飯食ってんのかよ。軽すぎ」
「え、もしかして、はこんだ?」
あちゃー。体育の授業で倒れるなんてこと自体、恥ずかしくて帰りたいくらいなのに、それをまさか恋人に抱えられて保健室までなんて。少女漫画じゃないんだから。自分が犯してしまった失態がありありと脳内に浮かんだ。はずかしすぎる。徐々に俯いていくわたしを咎めるように、岳人が下から覗き込んできた。まっすぐに切りそろえられた髪が、さらり。揺れる。体操着の柔軟剤にまじって、かすかに汗のにおいがかおった。
「なんだよ、だめだった?」
「だめじゃ、ない…です」
彼がいつもクラスの中心にいることなんて、同じ教室にいなくたってわかる。男女分け隔てなくフランクで、裏表がなくて、まっすぐで。だから恥ずかしいんじゃん。思わず、両手で顔を覆った。きっと、同じコートの中で誰かが倒れたら、岳人はいちばんに飛んでって、その人のことを介抱するだろう。困ってる子が近くにいたら、絶対そうする。でも、あの時、わたしと彼は離れてた。ふたりの間には、クラスメイトもたくさんいた。
彼を、みんなの前で、とくべつな男の子にしてしまった。
「近くに、保健委員の子、いたでしょ?」
「知らねぇし」
ぎしり、と音がしてベッドが少し沈んだ。顔の前で揃えていた手首が掴まれる。抵抗する気もおきないくらいの強さで、彼はわたしを抉じ開けた。
「つか、他のヤツになんか触らせねーから」
ぐっと手首をひかれて、目の前に彼の瞳が迫る。片膝をベッドの端にかけて、岳人がわたしを追い詰めてゆく。
「
、」
他の誰にも許していない距離で、彼はわたしの名前を呼んだ。それはとてつもなく甘く響いて、あっさりとわたしの思考を鈍らせた。ちゃんとわかってた。岳人が、わたしのことなんて軽々と支えられてしまうことくらい。そして、彼がわたしにしてくれるすべての特別扱いは、決して他の誰にもされてはいけない。わがままなんて、かわいい言葉じゃ表せない。
短く切りそろえられた爪先に、まるで噛みつくみたいに唇が触れて、わたしは何度だって気づかされる。わたしの、心を抉るものの正体に。
「おまえは、俺んだかんな」
むくのはね
190912......わたしが決して跳べないように
----happy bithday gakuto! ;)
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