波の音を聴いているうちに、なんでこんなところにいるんだろうという気持ちはどんどん大きくなって、それこそ波のように押し寄せてきていた。容赦なくローファーの中へと入り込む砂のせいで、足の裏のざらりとした感触はどんどん広がってくる。この感触、好きだけど、気持ち悪い。かといってこれを脱いで水の中へ進んでいくほどの気力もない。平日の午前中。波が寄せる砂浜は、全然人が居なくたってちっとも寂しそうじゃない。それはきっとこの波の音がこのまちの日常だからだ。
 なんだか、好きだけど、切ないなあ。

「…さん」

 誰もいない砂浜で数歩下がったところから後頭部へと投げられる低音が風に揺られて届く。それと同時に嗅ぎ慣れないムスクが風にのってやってきた。あとを引くような甘いにおいだ。少し大人っぽくて、みんなが馬鹿の一つ覚えみたいにつけてるような香りとは少し違う。年下のくせに。マセガキ。

「…戻った方がいいんじゃない?見つかっちゃうよ」
「あなたこそ」

 校門を出たら三十秒。なんて身近な存在だろう。この学校に通うことは、海に通うこととほとんど同義だった。二限目はなんだったっけ?数学?それとも化学?そんなことはどうでもいい。もしかしてあの窓から担任がこっちを見ていたりして。馬鹿みたい。こんなに広い海と砂浜とを含んでいるはずなのに、わたしたちの世界はとても小さくて、狭くて、ちっともおおらかなんかじゃない。こんなに狭いのに、わたしとあのひとは好き同士になれない。たった数百人の中で、同じ学年、同じクラス、それでも選んでもらえないなんて。このちっちゃな世界は理不尽だらけだ。

「ダビデはさ、嫌になったりしないの」

 風にはためく着慣れたセーラー服のスカート。砂まみれのローファー。乱れた髪の毛。吹き付ける潮風のにおい。

「…何が?」

 脛まで折られた学ランのスラックス。あの人とは違ういかつい白のスニーカー。ばっちりセットされた髪。海と、混じらない甘いかおり。

「報われない片思い」
「…別に」

 一歩、また一歩と、彼が砂を踏む音が近づいてくる。しっかりとした、迷いのない足取りで。彼を見ていると、自分はなんて儚くて弱い存在だろうかなんて思えてくる。自分が庇護されるべきか弱いものなんだという錯覚に、襲われるのだ。彼の重低音でなぞられる自分の名前は何かとても大切なもののようだった。頑固で、一直線で、でもどこか素直じゃなくて。遠慮なんて知らないみたいな顔して、でもいちばん深いところには絶対踏み込んでこない。

「戻ろう」

 五十センチ先から腕が伸びてきて、大きくてマメだらけの手が細くて白い手首を掴む。わたしは出来るだけ弱々しく見えるように首を横に振る。このまま引かれて行けば、どんなに楽だろうか。彼の背中に守られて、風にさらされることもないに違いない。はっきりとしたつくりの端正な顔。こんなに美しくて、そして男らしいのだから、きっと女の子たちがほっておかないだろう。わたしを捉えていた目が一瞬揺れて、それを誤魔化すようにゆっくりと視線を逸らした。その先にある校舎へと続く渡り廊下にこれからわたしたちが落とすであろういくつもの砂粒を思う。

「渡り廊下を渡ろうか…プッ」

 彼のしょうもない言葉遊びが、わたしたちの空気を変えることはもうない。当たり前になってしまったからだ。わたしが彼を傷付けた、彼が傷ついた合図のようなそれ。何を考えてるんだろうか。いつも無表情で、わたしが何度首を振っても、彼は絶対にこの手を離さない。けれども、彼はわたしの一方通行の恋を決して否定しない。頑固者のくせに。かまってちゃんのくせに。

「ダビデ、戻りなよ」
さんも来て」

 足りない言葉の裏側で、もし彼が涙を流しているとしたら。わたしが頷くだけで、突然ふたりも救われるんだとしたら。

「…好きだよ」
「馬鹿」

 他の女の子を好きになればいい。君ならどんな可愛い子だって落とせるでしょう。その美しい顔と、心地よい声で、いくらも振り回せるに決まってる。こんな可愛げのない女に執着して、幸せを逃し続けてるなんて、なんて強情で、馬鹿な子。


ブロークンハート


120624......恋するこどもはみんな大馬鹿者です
(back)