「さらさらだねぇ」

 まっすぐに切りそろえられた髪をその繊細な指で弄びながら満足そうな顔で先輩は呟く。平気な顔をしてされるがままになってはいるが、時折肌を擦る彼女の指先の感触に顔が熱を生んでいることにこの人は気付いているだろうか。

「そうですか?」
「うん。羨ましい」
「先輩の髪の方がよっぽど綺麗に見えますけど」

 ゆっくりと流れる風が不思議そうに首を傾げた彼女の髪を攫う。そうかなあ?と呟く無邪気な顔はとても年上には思えないのだけれど、ひとたび校舎の中に入ってしまえば彼女は違う世界の人だ。彼女が思っているよりも、自分が思っているよりも、折れた階段がつなぐ距離は長く、およそ三メートルの高さの違いは大きい。初めて会ったときよりもいくらか伸びた身長は、あっという間に彼女を追い越してしまったけれど、一学年の差は全く変わらず俺たちの間に横たわっている。
 数時間前、窓際の席から覗いたグラウンドに見た、クラスメイトと笑いあっている先輩の、俺の知らない横顔がふと頭に浮かぶ。なんということはない。俺たちは同じ教室で授業を受けることはないし、宿題を見せ合ったりすることもなければ、一緒に教室を掃除することもなく、もちろん彼女は俺を置いて卒業していく。そんなことを考えれば、知らない顔のひとつやふたつ有って然るべきではないか。

「でもやっぱり若の髪には負けると思うな」
「そうですか」

 いつだってこのくすくすと聞こえてきそうな柔らかい笑顔に絆されていることは百も承知だ。これまで大きな喧嘩をしたことはなく、彼女が拗ねれば俺がその原因を取り除こうと心を砕き、俺が不機嫌を纏えば彼女が優しくそれを払う。部の先輩には下克上だと生意気な口をきき、同輩にも弱みは見せまいと意地を張っているが、近くて遠く、遠くて近い彼女との距離は俺を随分と器用で柔軟にしてくれているように思った。おそらく、この人と俺とはうまくいっている。
 「ほんとうにさらさら」そう言って飽きずに俺の髪を掻き混ぜている手を引き、ふたりの間の距離を縮めれば、みるみるうちに彼女の頬は桃色に染まる。その愛らしい頬にそっと唇を落とせば、いまにも消えてしまいそうな声で、くすぐったいと聞こえてきた。ふたりの髪が一緒になって風に揺れている。今度はそのあらわになった耳元に唇を寄せた。

−でも俺の髪を自由にして良いのは先輩だけですから、あなたにしかわからないことですよ

 俯き加減の顔はますます赤みを帯び、それを隠すように彼女はこちらに体重を預けた。「ずるいなあ」という言葉と一緒に吐き出された溜息がブラウス越しに伝わる。その温かさ、こどもみたいな声、手の中の細い腕。この人に与えられているものの多さを思う。それはなんと繊細で、失いがたいものであるだろうか。
 彼女は俺の腕の中で上目を使いこちらを見上げる。その愛おしい強かさを限りのない幸福感のもと享受して、俺はこの人にそっと口づけるであろう。
 知らない顔のひとつやふたつ何だというのだ。
 俺の知らない顔があるように、俺しか知らない顔がある。


ちっぽけな世界


120618......勝てなくていい
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