傍目から見れば、いつ醒めるともしれないまぼろしのような不釣り合いの恋なのに、彼のすべらかな指先は、いつだってわたしに現を突きつける。

さんとのキスはいつもメントールの匂いと血の味だな」
「…や、傑くん、まって」
「痛いですか?」

 ほんの数秒前、まるで手当てでもするかのように柔く口内を撫でつけていた傑くんの舌が、離れた途端にそんな意地悪を浴びせてくる。自分が決してわたしを痛くなんかしないこと、あなたはちゃんと心得ているくせに。ご丁寧に眉尻を下げてみせたりして、ほんとうにそういう仕草が上手な子だ。
 規則正しいノックのあとに聞こえてきたのが、「さん、少しお時間いいですか」というお行儀の良い声だったから、夜半だというのによく確かめもせずにドアをひらいてしまった。開けた先には制服姿の傑くんがいて、彼の名を呼びかける隙間すらなく、もつれるようにしてふたり、部屋の中へと雪崩れ込んだ。うっかり放してしまったレバーハンドルを傑くんの右手が引き受けてドアが閉まる。かちゃん、と錠が下りる音がやけに遠くの方で聞こえた。性急に重ねられる乾いた唇が頭の中をあっという間にふやかしてゆく。どうしたの、と問うことさえも許されず、忙しないはじまりとは裏腹に、結び目を解いていくような丁寧さで、傑くんの舌が素のままの唇を割った。そんな執拗にも感じられる行為の後に投げられたのが、あの意地の悪い問い掛けだ。
 くちづけの間ずっとわたしの頬に添えられていた傑くんの指先はひどく冷たかった。そのひやりとした感触が耳の裏側へと押し込まれていき、もう一度重なりかけた唇。すんでのところでわたしの指がそれを食い止めることに成功した。

「待ってって言ってるでしょ」
「…待てないって言ったらどうしますか」

 二つも下の男の子に、ずいぶんと高いところから見下ろされている。傑くんの真白い顔に天井の安い蛍光灯が青い影を落とす。呼吸が整って少しだけ冷静になると、彼の制服が驚くほど汚れていることに気がついた。やっかいな任務の後特有の纏わりつくようなすえた臭いに混じって、わずかだけど鉄臭さも染みついている。

「傑くん、もしかして怪我してる?」

 くちづけの余韻も忘れて彼の身体を制服ごしに確かめると、傑くんは観念したように肩をすくめ、縫いとめていた壁際からわたしを解放した。小さく首を振って、苦笑を零す。だいじょうぶ、これは私のじゃないから。傑くんの涼しい一重瞼の奥に、一片のあわれみが浮かんで、消えた。

「でも、これじゃあさんが汚れてしまうね」
「そんなの…ねえ、もしかして、いま帰ってきたところ?」
「そう。悟と任務に出ていて」

 戻ったら、さんのベランダに煙が見えたから。慈しむような触れ方で、傑くんの冷たい甲が顔の左側を通り過ぎる。どきりとした。先ほどの、執拗に口内を探るくちづけ。彼は最初からそれを思い描いて、わたしの部屋のドアを叩いたのだ。

「悟に、休憩室に引きずり込まれそうになったけど、振り払ってきました」

 あいたくて、どうしても。
 傑くんはいつも、なんでも知っている大人の男のひとみたいな触れ方で、なにひとつ知らない年下の男の子みたいな声音を使う。
 わたしの指先を掬い取って、傑くんが静かに鼻先をよせた。くすぐったさを与えない、他人行儀な仕草だった。





 彼とはじめて唇を交わした去年の秋、わたしは高専入学以来のどん底にいた。
 先の交流会個人戦で、京都の二年生に文字通り完膚なきまでに叩きのめされ、そんなことをいつまでも引き摺って任務は立て続けに失敗。同期はおろか先輩たちにまで大いに迷惑をかけ続ける始末。担任から、少し身体を休めるように、という心優しい気遣いなのか実質の謹慎処分なのか定かでない一週間もの休暇を貰い、嫌でも自らの将来について向き合わざるを得なくなった。飛び抜けた優等生でもないけれど、とくべつ落ちこぼれているわけでもない。だからこそ、前に進む勇気も、逃げ出す勇気も、選び取るためにはどちらもおんなしだけの大きさが必要だった。
 休暇明けの初日、リハビリがてらに宛がわれた任務で、正面ロータリーに入ってきた迎えの車の後部座席に乗っていたのが傑くんだ。


さん、今日はよろしくお願いします」

 その男の子は柔和な笑みを浮かべ、ドアを開けたわたしにとても丁寧に会釈した。後輩と二人であたるようにとは聞かされていたけれど、まさか。入学して半年もたたず一級の推薦を受け、さらには、昇級を判断される一級相当の任務を易々とこなしてしまったと話題の、ふたりの一年生。彼は、確かにその片割れだった。もちろん、高専の中にいれば顔を合わせることくらいあるし、二言三言くらいなら交わしたこともあっただろうと思う。でも、同じ任務に、それも二人きりで赴く日がくるとは思いもしなかった。現に、車中で補助監から聞かされた任務の内容は、同級の同期とツーマンセルで何度も派遣されたことのあるようなありふれたものだった。高専からそう遠くない、山梨との県境あたりの山間から既に確認済みの呪物を回収する。その道中、引き寄せられている低級呪霊を可能な限り祓うこと。補助監の話によれば、現地は見通しが悪く、指定された「道中」が比較的広範囲であることから、効率化のため特別に夏油くんが補佐として同行するということだった。あくまでも主導はさんです、と言いきかせられると、あまりにも気が重かった。聞けば、彼は今朝方泊りがけの任務から帰ったばかりだという。

「そんな、疲れてるんじゃない?さっさと片付けて早く帰れるように頑張るね」

 わたしの取って付けたような先輩面に彼は嫌な顔ひとつせず、一緒に頑張りましょう、と教科書通りの穏やかな笑みを向けた。


 結論から言えば、リハビリになるはずだったこのありふれた任務はわたしの連敗記録を一つ伸ばして終わった。
 回収する予定だった呪物に辿り着くことなく、事前調査では未確認だった一級レベルの呪霊に遭遇。自分で下した二手に分かれるという判断が仇となり、夏油くんがこちらの様子に気づくまでのタイムラグで、わたしはあっさり死にかけた。夏油くんにしてみれば、それこそ朝飯前の相手だったろうに、変にわたしを庇ったせいで彼も額を負傷。当該呪霊を祓ったところで夏油くんが補助監に連絡し、任務は中止となった。
 死にかけたなら気を失ってでもいればいいものを、手放せない意識の中でわたしは果てしない不甲斐なさに打ちのめされていた。夏油くんに運んでもらった医務室で手当てを受けたわたしに、担任は「気に病むな」と釘を刺した。よくあることだろう。そう諭されて、何も言い返せない。そうだ。よくあることだった。任務中に想定以上の呪霊に遭遇することも。それで本来の目的が達成されないことも。自分の力不足で、組んだ相手が怪我を負うことも。そういう積み重ねが、ドロップアウトのきっかけになることだって。そんなことは何度だって見てきたし、何度だって経験した。生きていれば、よくあること。全部、ぜんぶ、ぜんぶ。

 シャワールームで血も汗も泥も洗い落として全身を確かめても、わたしの身体には傷はほとんど残っていなかった。せっかく生きて帰ってきたって、シャワー後の一服もろくな味がしない。せめて、自室に戻る前に夏油くんに一言声をかけなければと思っていたのに、そんなことすらも先を越されてしまうのだから救いようがなかった。休憩室の褪せたベンチで、彼はわたしが出てくるのを待っていた。わたしをみとめた傑くんが眉尻を下げて困ったように笑う。

さん…きょうは、補佐の役目、果たせなくてすみませんでした」

 年下の男の子にそんな顔をされたら、あまりの情けなさで泣きたくなる。
 三年の秋にもなれば、自分がいまの等級で頭打ちだということくらいだいたい想像がついた。呪いの見える家系に生まれて、当たり前のように高専に入学したけれど、うちは別に由緒正しい家などではなかったし、これまでに輩出した術師も数えるほどだと聞いている。むしろ、在学中に二級にまで昇級したのだから随分と出来の良いほうだ。

「やだな、夏油くんに謝られちゃうと立場ないよ」

 夏油くんの額の傷は塞がっていたけれど、完全に消えるには数日かかるという。こちらは、死にかけたなんて言っておいて、治療を受ければほんの数時間で起き上がれてしまったのに。もういっそ、やめてしまいたいな。こんな思いをするくらいなら。一丁前に存在していた自尊心が変に拗れて、弱い心をズタズタにした。けれど、入学してたった半年の、二つも年下の後輩の手前、そんな弱音は吐けるはずがない。吐きたくもない。考えるな。何も。

さんは、とても真面目で誠実ですね」

 わたしの弱気など承知しているかのように、穏やかな物言いをする。いつも結かれている髪はまっすぐ下りていて、濡れているのか、黒色が深く見えた。色の白い夏油くんの顔がより一層青白く映る。目の前に立たれると、腰窓から差し込んでいた夕陽はすべて遮られ、わたしの上に大きな影が落ちた。ふたりの間に、先に男女の領分を持ち出したのは、わたしの方だったのかな。ピンクに膨らんだ額の傷口に伸ばした手を、夏油くんの指先がやんわりと制す。そんな顔しないで、と逆の指先が頬を撫でるから、耐えられなくて俯いた。

「ごめん…」
「こんなの、何でもないです」

 それより、アナタに大したことがなくて良かった。夏油くんの低くて甘い声色は恐ろしいほど慈しみに満ちていて、それはそれは簡単に、わたしの心を侵していった。強いて言うならば、揃ってあの真黒い制服を脱いでしまっていたのが運の尽きだったのかもしれない。ほんの数十秒前まで頭の中を支配していた、自らの行く末も、拭うことのできない惨めさも、なけなしのプライドも、一切合切がもう、抜け落ちてしまっている。絡んだ視線は、おかしな色でめちゃくちゃに塗り込められていた。こんな状態で、瞼を下ろしてしまったらどうなるか。そんなのは、考えるまでもないことだ。
 そうして、一度その距離を許してしまえば、あとはもう済し崩し的に落ちてゆくだけ。惹かれてゆく理由など、あとづけで十分足りる。

 こうして始まった傑くんとの恋人同士のやりとりは、わたしのつまらない煩慮をゆっくりと取り除いていった。
 傑くんの恋の所作はいつも不備がなくて、でもそれを手慣れた様子に見せない抜け目なさも、あわせて彼は持っていた。最奥の疼きを窘めるような冷静さでわたしの身体をひらきながら、「さんとこうしているとどうしていいかわからない」と悩ましげに囁いてみたり、わたしが零した不安や悲しみを諭すように拭いながら、「私は、アナタに何かしてあげられますか」と頼りなく笑ってみたりする。傑くんとの恋が時折まぼろしに思えるのは、彼が決して乱暴をしないからでもあった。そこにあるのはいつも、自らの振る舞いをぼやかす狡さだ。
 あの日以来、わたしたちに同じ任務が割り当てられることはなかった。
 校舎や寮で傑くんを見かけるとき、とくに、彼が五条くんとふたりで肩を並べていると、彼はとても特別な男の子のように思える。いずれ互いが高専を出てしまえば、彼は簡単には手の届かない存在になるだろう。そんなことを、いつも漠然と感じていた。でもそんなの大したことじゃない。たとえば、素っ気ない会釈や何気ない会話の一片で、密やかに交わす温度。ほこりくさい旧校舎の空き教室や、招き入れられた彼の部屋での、少しだけうしろめたくなる逢瀬。そういうふたりのことが、いまのわたしにとってはよっぽど重要な案件だった。





 ベッドの上でわたしの指先にうすい唇を寄せて、傑くんが可笑しそうにその口元を震わせた。

「どうかした?」
「いや、口のなかは神経質なくらい痕跡を消そうとするのに、いつも指先は甘いにおいをさせたままだから」

 不思議だなって。切れ長の目が孤を描く。そんな風に自分では意識していない癖を言い当てられてしまうと、月あかりに照らされた彼の横顔のうつくしさが急におそろしくなる。咄嗟に手を引こうとしたら、ぬるくなった傑くんの指先が絡めとるようにしてそれを拒んだ。逃げないで。乱れた黒髪の向こう側で、傑くんがわたしを見つめている。

「私の前で吸わないのはどうして?」
「……考えたことなかった。傑くんに、集中してるから」

 質問をしたのは彼の方なのに、こちらの答えなんてすべて無意味にしようとする。そんな、見透かすばかりの冷たい眼が、わたしを刺し通す。こうして傑くんに直接注ぎ込まれるものをおもえば、この世の嗜好品などすべてお役御免だろう。不愉快を拭おうと躍起になってこすりつけた硬いブラシが口内を傷つけてしまっても、そんな傷口すぐにふさがる。指先に残る子供だましみたいなバニラの香りも、こうして彼と触れ合えばやがて消えてなくなる。でも、彼に与えられる感情は、とめどなくわたしのなかから溢れ出してしまうことがある。ひとの生き死を決めうつような、そんな任務のさなかでさえも。思い悩まずに済むことが、何よりも悩ましいなんて。だらしがないと笑ってくれても構わない。けれどあなたは決してそれをしない。支配するようなくちづけを与えて、困ったように笑うひと。

さんは私を困らせるのがとても上手だ」

 探るようにわたしのうえを這ってゆく指先は、ほんとうはもう、その扱い方をすべて心得ている。ばかばかしい。この戯れに永遠などないことくらい、じゅうぶんに理解していた。気づけばわたしはスランプなどとうに抜け、この春で進級すれば、名前ばかりのモラトリアムまで任務に飛び回る日々が続くのだろう。この恋は、いつか醒めるまぼろし。ふたりを別つのは、揺れる気持ちか、進む先の違いか、それとも、死なのだろうか。
 白く淡くうつくしい傑くんの額をなぞってみても、そこにはもう、少しのいびつさえ残っていない。それを確かめては安堵し、同時に、この手をすり抜けてゆくものを思い浮かべる。こんなわたしの揺らぎひとつでも、目聡く捉えて、あなたはきっとそれを取り除いて見せようとするだろう。
 彼のたくましくてうつくしい腕が、宥めすかすようにわたしを抱きすくめ、むせかえるほど甘い、あいのことばを囁いた。

「アナタと、ずっとこうしていたい」

 傑くんはいつも、なんでも知っている大人の男のひとみたいな触れ方で、なにひとつ知らない年下の男の子みたいな声音を使う。そのたびにわたしは、あの日あの後部座席で、一緒に頑張りましょうと、うすく笑みを浮かべた彼を思い出す。彼は、はじめから、わたしのことを年上の女性として丁重に扱っていた。あの日のわたしは確かに、そういう類の慈しみを求めていたのだろうと思う。
 まぼろしと現に、大差などない。
 だからわたしはこうして、わたしを知り尽くした気でいるあなたを、心の底からいとしくおもうことができるのだ。









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