※中学三年生のお話です。
教室で机を並べることのない、クラスメイトがいる。
ガコン、とひとつ不愉快な音がして建付けの悪い引戸がひらかれていく。その隙間からのぞく短くて明るい髪が身震いするみたいに僅かに揺れた。寒いところから暖かいところに入るときって、どうしてふるえてしまうのだろうな。人の気配に顔を上げた虎杖くんが視線の先にわたしを認め、なんとも気安く片手をあげた。よ、と零した唇の端はまるで特殊メイクを施したかのよう、紫色と茶色を混ぜた曖昧な色で腫れている。また喧嘩したんだ。そうわたしは心の中で呟いてみたけど、"また"という言葉がなんだか少しエゴイスティックな気がして口にはできなかった。ここって先生いつもいねぇね。虎杖くんはそう笑いながら慣れた手つきで入口横のガラス戸を開け、アルコール綿の入った袋を我が物顔で取り出している。
虎杖くんは同級の、もっといえば同じクラスの男の子ではあったけれど、彼のことについてわたしが知っているのは本当にわずかばかりのことだけだった。また、なんていって、彼が誰にこんな傷を与えられてくるのかを一度だって知ったことはない。
「痛そう…」
「うん。まあ、痛いっちゃ痛いよ」
ツンとした匂いを漂わせながら傷口を雑に拭って、虎杖くんはなんてことないように言う。学ランにはまだ三月の冷えた空気が纏わりついていた。
君のその伏せた睫毛がほんの少し揺れることに何かとくべつな理由があるのかなんてこと、きっと誰も知りはしないのだろうね。
「ね、そういえばわたし、虎杖くんのすっぴんて見たことないや」
「すっぴん?」
「怪我してない顔」
虎杖くんは目を真ん丸にしてわたしを見つめ、それから数刻おいて弾けるように笑った。たしかに、ここくんのは怪我してんときだもんなあ、と。
こうしてうすく汚れた長机を挟んで向き合っているわたしたちは、友達とは言えなかったのかもしれないけれど、何も話さない君のこと、何も訊ねない君のこと、いつのまにか居心地よく感じてしまっている。でも、人間の気持ちなんてひどく勝手だ。ふたりの抱える些末な孤独は決して交わらない。それをきちんと解ったうえで、知れぬことを知らぬままにしておく。そのいかに、難しいことか。
・
・
・
わたしが教室に行けなくなった成り行きは、なんともありふれた不幸せの形だった。
中学校にあがってしばらくしたころ、父が母に手をあげるようになり、その腹いせに今度は母がわたしを叱りつけるようになった。こわくて、いたくて、逃げ出したくて。それでも、彼女に何度つよく叱りつけられても、何度その手をあげられても、額や首筋につけられた痣を必死に化粧で被う彼女自身の苦しみを目の当たりにすると、わたしは何も言えなくなってしまうのだった。衣替えで隠すことの出来なくなった、二の腕を染め上げるうす汚い紫色。それをクラスの誰にも知られたくなくて、わたしは教室の敷居を越えることが出来なくなった。学校に行かなければ、母の不機嫌はさらに増す。わたしはどうしても、母のことを傷つけたくなかった。たとえ彼女がこの先、自分を傷つけ続けるのだとしても。教師たちの口から漏れる恐ろしい言葉に必死に抗って、保健室に通うことで折り合いをつけられる頃にはすでに二年生が終わろうとしていた。用意された補修課題でほとんどなくなった春休みを過ごし、桜も散り始めた新学期。少しずつ慣れていったこの場所で、わたしは虎杖くんとはじめて顔を合わせた。あの日も虎杖くんは顔に少しと言えない傷をつけ、学ランの下にきたパーカーの袖を泥か何かで汚していた。
授業時間にも関わらずおもむろに保健室へと入ってきた見慣れぬ彼のその顔に、わたしはあからさまに表情を強張らせた。殴ったような痕もあったし、引掻いたみたいな痕もあった。その、視覚からの情報だけ。それだけで、身体はまるで自分のことのように痛みをおぼえてしまう。反射的に彼から目を逸らしても瞬きの裏側に傷口の残像がちらついて、わたしの足は縫いつけられたようにその場から動かなくなった。
「あれ?先生いねんだ。参ったなー」
気の抜けた声が室内に響く。彼はわたしの不自然な様子を気にもとめず、汚れた短い髪を粗雑にかき混ぜていた。保健室の消毒臭さに彼の持ち込んだ埃っぽさが混じる。それらをまとめて春のはじめのあかるい風が攫っていったのと同時、ぐるりと聞こえそうな勢いで彼がこちらを振り返った。思わず漏れてしまった、ひゅっという急いた呼吸は、もしかすると小さな悲鳴に聞こえたかもしれない。
「な、怖がらせちってるとこ悪いんだけどさぁ、もしかして保健委員のヒト?」
「ち、ちがいます…」
「あれ、そーなん?…どうすっかなあ」
きょろきょろと室内を見回す彼の纏う雰囲気は、その見た目に反してこれっぽっちも恐ろしさのないものだった。それはかえって不信感を助長したけれど、そんな心配も稀有に終わる。伏せかけたわたしの眼をまっすぐに見つめた彼の眉尻がわずかに下がって、思いの外やわらかい口調が耳を撫でた。
「なあ、なんか拭くのねーかな?消毒するヤツ…。あと軟膏みたいのとか。知らん?」
さすがにこのまま教室いけんよなあと呟いて、彼はもう一度髪の毛をかき混ぜた。痣をしたためた口元から零れた、軟膏、という単語が、彼のはちゃめちゃな姿とはまったく結びつかなくて、そのちぐはぐが急激にわたしを冷静にさせる。彼はただ、傷の処置に来た。それも、すでに授業の始まってしまっている教室に戻ってゆくために。
「あの、わたし、使ったことなくて、勝手に…」
「あー…したら、それはちゃんと俺が怒られる。から、よかったら教えてくんない?」
頼むよ。彼は笑いながら、胸の前で両の手のひらをあわせてみせた。笑うたびに傷口が痛々しくよれる。擦過傷も、打撲傷も、どうしたってまっすぐなんか見られないのに、名前も知らない彼の言葉尻には、あっという間に距離をつめてしまうような気安さがあった。それはすこし無遠慮だったけど、人を痛めつけないための作法をきちんとわきまえていた。
わたしが出してきた備品を使って手当てをするあいだ一文字に結んでいた口を唐突に開いて、彼は律儀に自分の名前を教えてくれた。イタドリ。利用カードの氏名欄に踊る威勢の良い文字。虎杖くんのわたしへの興味は、カードを書き進めてゆく片手間で問うてしまえる、そんなひどく軽い調子のものだった。
「おまえは?何年?」
「…三年」
「同じじゃん!何組なん?」
「…………おなじ、いたどりくんと」
その声はあまりにも小さくて、ほとんど耳に届くはずはなかったと思うのに、虎杖くんは風切音でも聞こえてきそうな勢いで、手当ての済んだ顔をおもいきり上げた。その顔は、謎かけの答えを思いついたときの、幼いこどものそれに似ていた。
「
!」
ひらめきの表情を柔く崩して、寸分の迷いもなくわたしの名前を口にする。今度目を丸くするのはわたしの方だった。初めて相対するクラスメイトの彼がわたしの名前を言い当てられるということ。それはつまり、彼はわたしがここにこうしている理由を承知していることを示していた。それならば、良い印象などあるはずはない。好奇、憐憫、嫌忌。わたしが同級生にこの場所で向けられる視線は、どれも居心地の良いものではなかった。仕方ない。他の選択肢はいくらもあって、それでもいまを選んだのは自分なのだから。
なのに虎杖くんは、その後もずっと、人好きのする笑顔を崩さないままでいた。
「なあ
、これ教室もどってヘーキかな、目立つ?」
青く変わりはじめた口元を虎杖くんの指がなぞる。目立つよ、と簡単な一言すら言えないわたしの困惑を救うように彼は席をたち、「ま、しょうがねっか」と言ってまた笑った。そうして虎杖くんは、壁に掛けられた無機質な時計の針にちらりと目をやる。
「三限、ぎりぎり最後滑り込めっかも」
「あ、あの…わたし、片付けておくよ。これ」
「まじ?すげー助かる!さんきゅーな」
「…うん、だいじょうぶ」
「っし!したら俺いくわ」
急に忙しなくなった虎杖くんが廊下へと駆け出した。ガタガタと不穏な音をたてて開いたドアをくぐりぬけたところで、キュッと上履きがリノリウムを蹴る音が響く。勢いよく振り返った虎杖くんは、またな、と快活に手を振って保健室を後にした。またな、
。その声が、わたしの胸をうったのは、日常の延長の、なんてことないひとつの出来事だったから。安い青春ドラマにありがちな、運命みたいなものなんかひとつもない。なくてよかった。ないのが、よかった。
その日からというもの、保健室を訪れる学生たちの会話から時折こぼれるその名前を、わたしの耳は無意識に拾い集めてしまっていた。それは虎杖くんとやりとりする、他愛のないおしゃべりに潜む以上のこと教えてくれたわけじゃない。ただ、他人の声を通して語られる、虎杖悠二というひとの、その淡い輪郭を確認してみたかった。飛び抜けて良い運動神経のことや、おじいさんとふたりで暮らしていること。虎杖くんは生徒たちの話題の的というわけではなかったけれど、彼の存在は、あかるくて、せわしなくて、男の子たちの笑いの種であることもあれば、ときには、女の子の秘めた好意の矛先であることもあった。そうやって彼の名前が他の人に紡がれる度に、わたしの名前を呼んだ虎杖くんの声色をこころの奥で反芻する。
わたしが彼に、怪我を付した原因の、その理由を訊ねないかわりに、わたしが夏中ずっとカーディガンを手放せないでいることに、彼は決して触れなかったし、気になる素振りすらも見せることがなかった。わたしたちがクラスメイトになれたのは、虎杖くんの軽々とボーダーラインを踏み越えてしまう振る舞いが、決してルール違反だけはしなかったからだ。どんなときも。ぜったいに。
・
・
・
足元で燃えるアラジンストーブが虎杖くんを包んでいた冷たさを緩めてゆく。机に開かれた解きかけの問題集をちらりとみて、彼はわざとらしく眉をしかめた。英語も数学もぜんぜん見たくねえ、いま。無骨な手のひらがおおげさに目元を覆う。その手のこちら側、人差し指と中指の付け根が青黒く腫れていた。それは、彼が誰かから力を受けただけではない、同じように与えたことの証だった。わたしはいつもそうしてきたように、その色には目を瞑って、他愛もない話を探すふりをする。でも、卓上に置かれたカレンダーの数字が、それを許してはくれない気がしていた。
仙台に春がやってくるのはきっとまだ少し先だけど、わたしたちのわかれ道はもうすぐそこに迫っている。
「そういえばね、わたし、春から東京の学校いくの決まったよ」
「ふーん。…よかった、な?」
「うん。寮にはいることになって、」
虎杖くんの様子を伺う曖昧な相槌に精一杯の肯定を示そうとして、空回りした声が妙に上擦った。それでも、わたしの肯定をきちんと受け止め、最高じゃん、と緩んだ彼の瞳はあまりにもやさしい。こんな風に自分から行く先の話をしておいて、どうしようもなくせり上がってくるせつなさにやられそうになっている。くだらない、こんな感傷は。でも、この一年間の、彼と向き合うわたしだけが、自分に嘘をつかずにいられる、わたしにとって唯一の理想だった。それが、くだらなければくだらないだけ、たいせつな。
「虎杖くんは?」
「俺?…俺はフツーに近いとこ」
まあ、じいちゃんのこともあるしな。その虎杖くんの物言いはけっして明るいものではなくて、でも別に、重苦しいというわけでもなかった。フツウ。大人たちの言う「普通」なんて、ほんとはちっとも普通じゃなくて、それが「間違わない」という意味なんだとしたら、この場所でしか会えないでいるわたしたちは間違っているのだろうか。自分の知らないどこかで、知らない誰かのことを力で説き伏せている彼のこぶしに、いつのまにか恐怖を感じなくなってしまったわたしは。
虎杖くんの武骨な指が、器用に手当てを進めてゆくのを見ているのが好きだった。虎杖くんの手つきは、丁寧さはなくともいつだって器用なのだ。それが稀にヘマをするのが、どうにも愛らしくて。
「あ、もうちょっと右だよ」
いままでそんなことをした試しなかったのに、くだらない感傷がおせっかいを働いて傷口とほんの少しずれたところに絆創膏を貼ろうとしている虎杖くんにうっかり手を貸そうとしてしまった。余計なことをした、と、思ったときにはもう遅い。
少し丈の短くなった制服は、向かい合わせの机の分だけ伸ばした腕に追いつかなかった。そうして、その剥き出しになった手首を虎杖くんのてのひらが掴む。
「痛そう」
それがセーターの袖口から覗く紫色のことを示しているのだということはすぐにわかった。彼の拘束は簡単に解けるくらいに甘くて、きっとわたしが手を引けば、するりと外れてしまうだろう。それなのに、まるで金縛りみたいに動けない。虎杖くんの瞳が、これまでに見たことがないほどまっすぐにわたしを射抜いたままでいる。掴まれた手首が燃えるように熱い気がしてならなかった。それが、身体の奥底に、喉元にも、瞳の裏側にさえ、伝染する。
「しょうがないけど目立つよな。
、色白いし」
早く来ると良いな、春。
それは、桜の花を散らすほどにもならないそよ風のように柔く肌の上を撫でてゆく、なんてことない独り言みたいな口ぶりだった。
はじめて直に触れたはずのわたしをあっさり解放して、虎杖くんは何もなかったみたいに絆創膏を持ちなおした。そしてそれがぴたりと傷口に封をしていく。
「あ、そーいや俺も見たことない」
の、すっぴん。そう言って、虎杖くんのパーカーの袖がわたしの頬を拭う。その向こう側に、零れ落ちるような彼の笑顔がある。赤い袖口に下手くそなわたしのファンデーションがついていて、それがスローモーションになって離れてく。わたしと虎杖くんのあいだには、泣いてしまうようなことなんかひとつもなくて、恋でも愛でも、なんなら、友情とすら呼べないような、曖昧なものしかなかった。
違う。曖昧なものにしていたかった。この街を離れたら、新しい生活が始まったら、わたしの肌がぜんぶまっさらになったら、いずれ忘れてしまうような、そんな程度のものにしておきたかったんだ。
こんな風に拭われてしまえば、きっとわたし、君との出来事を何度だって反芻してしまうよ。
「じゃあ、俺いくわ」
彼は席を立ち、頭の後ろで両手を組んでいた。虎杖くん、と呼びかけようとして開いた口からは何も出てこない。ただ、この場所を出てゆく彼の、あいかわらずの笑顔を、そのまなじりに滲むやさしさのすべてを、瞬きもせずに見つめていた。
ここを出てしまえば、わたしたちの行く先はきっともう交わらない。互いの孤独を知ろうとする必要もない。それでも、凍える日々の中で、この瞬間にわたしの中学生活のほとんどすべてになってしまった彼のことを、クラスメイトの虎杖悠二というひとを、ひどくたいせつなものとして思い起こしてしまうことがあるだろう。もう二度と来ることのない、「また」を想って。
それは決して、間違いなんかじゃない。