こんな涙には価値なんかない。薄汚くて、馬鹿らしくて、爽やかさだって、ひとかけらもない。だからほんとうは、こんな風にあなたに慰めてもらったりなんかしちゃいけない。わかってる。ちゃんとわかってるはずなのに、いつだってあなたは、とくべつわたしに優しくするね。

 隣の席に投げ出された椅子をつき合わせるようにして、バネがそこに腰掛けた。学ランのスラックスがむきだしの膝横を擦る。彼の右脚が、わたしのあいだに割って入る。幼なじみ同士、とかんたんに名付けてしまうにはあまりにも近い距離だった。あの子がみたら、いったいどんな顔をするのだろう。
 ただ確かなのは、バネが、ここにいてくれるということ。他の誰でもない、わたしのために、この教室に残ってくれたということ。しゃくりあげるわたしを決して馬鹿にしない、優しい息づかいがすぐそこにある、ということ。

「おまえな、そんな泣いたら目ん玉とれちまうぞ」
「……とれるわけないもん」

 ばか、真面目に返すな。ふっと、息を吐き出すように笑って、大きなてのひらがわたしの頭をがしがしとかき混ぜた。その少し荒っぽくて、底抜けに優しい感触が、胸の奥をまたいちだんとつらくさせる。この手がわたしだけのものならば、どんなに幸福であっただろう。そんなあり得ない想像を頭の中に巡らせて、またひとつわたしは汚くなってしまう。できることならば、この手を切り取って、そっと隠して飾っておきたい。なによりもだいじに、いつまでもたいせつに、決して誰にも、知られぬように。
 バネに、彼女ができた。彼のダブルスパートナーで、いちばんに可愛がっている後輩の、そのクラスメイトの女の子。部活を引退したバネのことを三年生の教室まで毎日毎日かいがいしく迎えに来る、よく言えば健気な、はっきり言えば図々しい、ブスでもないけどとりたてて可愛くもない、そんな子だった。
 端的に言おう。わたしは生まれたときから一緒にいた大切な幼なじみを、その、どこの馬の骨ともわからない女に、あっけなく奪いとられてしまったのだ。ほんの、三月前のこと。

「バネとあの子、付き合ってるってホント?」

 意地の悪いサエの問い掛けを無視して、教室の窓からグラウンドに向かう指の先を追えば、冷たくなりはじめた海風でも届いているというのだろうか、大げさに凍えるような仕草をして、バネの腕を抱きしめる甘ったるい笑顔。ちっとも見たくなんてないのに、どうしたって目を逸らせなかった。だって、瞬きなんてしたら、それだけで流れ落ちてしまいそうだ。必死に隠し通してきた、すべてのことが。
 忘れようとしても、瞼の裏側にやきついて消えない、あの日のふたり。いま、バネは確かにわたしを見つめているのに、この瞳は、ほんとうはあの子のものだなんていうの?

「怒ってたね、カノジョ」
「まあ。ってもしょうがねえよ。おまえは悪くないって」
「…バネはそうやってすぐ、わたしのこと甘やかす」

 バネの骨ばったカサカサの指が目尻に触れる。わたしの身勝手さなんて無視すればいいのに、彼は律儀に「んなこと言ったってなあ」と困ったような顔をして、今度は自分の頭をがしがしと掻いた。ねえ。女の子の喧嘩に男の子が口出しなんかしたら、仕返しは何倍にもなってかえってくるんだよ。そんなこともしらない、純粋で、不器用なひと。でも、そういうところがずっと、好きで、大好きで。ほんとうは、誰にも渡したくなんてなかった。

 不必要ないじわるを最初に仕掛けたのは、他でもない、わたしのほうだった。
 お昼休みの教室前、肩を寄せて笑い合うふたりの横を、わざとらしく通り抜けた。少し困ったような、戸惑いを隠しきれないような、そんな、穏やかでない装いを眉間にしたためて。そうすれば、バネはきっとわたしを呼び止める。わかっていた。わかってて、した。

、どうした?」
「バネ…」

 案の定、わたしの手首を掴んだバネのてのひらを、彼の年下の恋人は隠しもせずに睨みつけていた。そういう凶暴さをきちんと持ち合わせているこの子がとても疎ましくて、でも、そのぶんだけ、わたしの嘘っぱちの不穏は目敏く見つけるくせに、彼女の正直なふるまいにはちっとも気づかないバネが、いとおしくていとおしくて、しかたなくなる。でっち上げた心配事を打ち明けているあいだ、学ランの裾は不自然に後ろへと引かれたままでいた。わたしは決して彼女に視線を向けないように注意して、まるで彼女がそこにいることなど気がついていないみたいに、すべての言葉がバネだけに届くように、声を潜め、仮初めの不安を注ぎ込んだ。
 そうして、彼の武骨な手が、何より優しく自分の髪を滑っていくのを、甘えた上目で見届ける。バネの低くて柔らかい声音を引き出すためだけの、これでもかというくらい情けない表情を貼り付けて、一生懸命に彼を見つめた。

「まあ、なんかあったらすぐ言えよ。な?」
「ん…ありがとう。………あ、」

 そしてわたしは、離れてゆく指先を追う延長で、はじめて彼女の存在に気づいてみせる。その日いちばんの穏やかな微笑みをもって、わたしは彼女に頭を下げた。飾りけのない真っ直ぐの敵対心を、こうして知らんふりするのは、あなたの恋人がそうしているからだって、ちゃんとわかっているのかしら?もっとも、彼が誰にも平等に鈍感なわけではないって、いま正に、解ってしまったところかもしれないけれど。

 わたしの仕掛けたいじわるは、じゅうぶんすぎる効力があったようだ。その証拠に、わたしをねめつける彼女の視線は、よりいっそう色濃くなっていった。そして、バネがそれを知らん顔するたび、いき場のない不満は、彼女の中にしんしんと降り積もっていったのだろう。
 それがきょう、とつぜん爆発しただけのこと。

「いかなくていいの、あの子のとこ」
「あー…まあ、それはいくけど」
「はやくいってあげなよ。わたしのことなんか、」

 ほっといて、という心にもない言葉を吐き出そうとした口元を、バネのてのひらが覆う。おまえが泣き止んだらいくから、なんて、どこまでも残酷なえこひいきだね。わたしがどんなにいじらしく泣いてバネの気を引いたって、結局最後には、あの子のところに行ってしまうのだから。どこにもいかないで、ずっとわたしの隣にいてよ。
 教室の奥深くまで射しこむ真冬の夕陽を広い背中が遮って、わたしたちの隙間に影が落ちる。お腹の中にドロドロと渦巻いているものを必死に抑え、わたしは笑った。ほんとうはずっと触っていて欲しい、あったかいバネの手を、そっとそっと外しながら。

「ほんともうだいじょうぶだから。いって」
「…ぜんぜん大丈夫に見えねえな」
「わたしが大人げなかったの。だから、あの子に謝っておいて、ね?」

 わたしの、代わりに。できる限り健気に見える笑顔を貼り付けて、わたしは先手を打った。もしバネに、アイツも悪気はないからなんて、あの子の張りぼての謝罪を代弁されてしまったら。わたしはそんなの、とても耐えられない。
 さて、彼の腕にしなだれかかり、「バネさんの彼女はわたしなんですよ」とのたもうたあの子は、いったいどう思うのだろう。恋人の口から注がれる、幼なじみの言葉。最もわずらわしい女の言葉を口移す恋人の唇を憎んで、いっそ手離してくれたらいいのにな。
 いま、この瞬間、ふたりの間に流れる沈黙はどうしようもない湿り気を帯びていた。意識をもってそう感じているのは、もしかするとわたしだけかもしれないけれど、依然として向かい合わせにした膝小僧は互い違いに重なって、伸ばされた長い脚がぎりぎり臙脂のスカートに触れないところを割ったままでいる。あの子が怒るのも無理はない。こんな恋愛じみた距離を、互いに許して育ってきてしまったのだ。

「ねえ、バネ。もうあんまり一緒にいないようにしようか。わたしたち」
「………」
「女の子って、彼氏のことは独占したいものだよ」
「………んなよ」
「バネ、?」

 バネの大きな手がふいにわたしの肩を抱きよせる。ほとんど立ち上がるみたいになって、よろけるように飛び込んだシャツの胸は広くて、あつい。左側からいとおしい整髪料の匂いが香って、喉元をせりあがりそうになる嗚咽を必死に飲み込んだ。「そんな顔すんな」と、わたしを強く抱きすくめる腕の温度は、まるで真夏のよう。
 あの子はもう、知ってしまっているのかな?彼がてのひらにしたためる硬くなったマメのいびつさを。いまだ夏の名残をとどめる灼けた肌の、存外に白く柔らかい場所の存在を。みとめたくない。彼の夏をみたこともないあんな子が、わたしのいまだ知らぬこの唇のやわらかさを承知しているなんて。
 わたしたちのあいだにはもう、隙間なんて一ミリもなかった。この腕に抱かれるのは、はじめてなんかじゃない。互いの体温を交わしても、鼓動がいたづらに逸ることもない。
 シャツ越しで耳を寄せた心臓は、とても穏やかに鳴っていた。
 わたしの唇が息を吸って吐くように、あまりにも自然な成り行きで、まやかしの言葉をなぞってゆく。

「だめだよ、春風。あの子を傷つけちゃ」
、」

 お隣の、黒羽さんちの、春風くん。互いの家を行き来するときにだけ呼ぶその特別な音を口にすれば、春風がわたしの名前を呼ぶ声だって、あまくやわくほどけてく。
 サエが言う「ふたり、ほんとにべったりだよね」という呆れ混じりの冷やかしを、快活に笑って受け入れてしまう。そんな愚かしいほどのまっすぐさが、春風のなかにはある。その鈍感こそが、ひとの心を惹きつけてしまう。
 彼の両の手がわたしの細い肩を掴み、身体を離して向き合った瞳は灼けるようにあつく、そしてわたしは思うのだ。あなたは、幼なじみへの慈しみと、恋のまなざしとを、どうしようもなく混同している。
 いまだ分別のない、いとしいわたしの半身。

「昔っから、おまえがつらくしてんのがどうしたっていちばん具合わりいんだよ」
「はる、」
「頼むから、ひとりで泣くのだけはやめろ」

 再び唱えようとした彼の名前は、まっしろなシャツに吸い込まれてなくなった。痛いくらいにわたしのことを抱きすくめて、彼は熱い溜息をつく。ひと雫だけ流れた仮初めの涙を、彼の胸に注ぎ込んでわたしは、誰にも気づかれないように嬌然と笑った。十五年間たいせつに守ってきた、この、恋とは呼べない甘い感情を、なんどだって反芻して。
 ほんとうは、奪われたなんて、上辺だけだ。だって、わたしを決して手放そうとしないのは、このやさしいやさしい、幼なじみの方なのだから。









200314