心底惚れている相手が生み出すものというのは、それがたとえ唇から漏れる音のひとつでも、目尻から溢れる雫のひと粒でも、全部ぜんぶぜんぶ愛おしくて。そしてその何一つだって、ぜったいに逃したくなくなってしまうものなんだ。そんなくだらない考えを、彼女はいとも簡単に俺に植え付けた。
 だれもいなくなった放課後の教室で、俺のすきなひとが泣いている。自分勝手にムリヤリ閉じ込めた、俺の腕のなかで。

「ねえさん、もう、泣かないでよ」

 少しの手加減もなく、がっちりとホールドしている俺の腕をなんとか退けようと、彼女は頼りない力を精一杯に込めて身じろいでいた。細い指先が制服の腕の内側を一生懸命に押し返しているけれど、はっきりいって痛くも痒くもない。だからさあ、そんな抵抗にもなんないようなあまい悪あがき、ぜんっぜん意味ねーっての。

「きりはらく、や、やめて」
「やめない」

 しゃくりあげる隙間で、ちゃんと心の底から思っているのか、それともほんとはちっとも思っていないのか、どっちなのかもわからない、そんな弱々しい拒絶をさんが口にする。彼女がすこしでも動くと、その反動で落ちた涙がブレザーの緑に小さな水玉をつけた。ふたりして座り込んだ汚れたフローリングの床は、どうにも硬くて冷たいのに、腕のなかにおさまっている体温は怖いくらいあたたかくて柔くて。彼女が荒く呼吸をすると、その度に濡れた熱い息がかかる。そうしてそれが、俺の身体を内側からじっとり湿らせる。
 俺がさんをはじめてみつけたときにはもう、さんには別の好きなひとがいた。残酷なことに、俺がどんなにしつこく尻尾を振ってアピールしても、ばかみたいに無邪気を装って距離をゼロにしても、俺と彼女と、ふたりのあいだは一向に縮まっていかなかった。むしろ、俺じゃない男のことで傷ついたときの儚い笑顔とか、俺の無遠慮を許してしまう呆れ顔とか、そういう大人びた顔を見せられるたび、同級の女子なんかとは似ても似つかないその様子が、いつだって簡単に俺の心を突き放した。
 それでも俺は、このひとのことが好きで好きで堪らなくて、どうしても、どんなことをしても、彼女を自分のものにしたかった。


「俺のほうが、絶対ぜったいさんのことすきだよ」

 こうやって俺が想いを告げれば告げるだけ、彼女の哀しみの色は濃くなってゆく。流れ落ちる涙がもったいなくって唇を寄せれば、さんが細い声で「ほんとに、や」と零した。そうして彼女の白くて柔らかな指が、微かに俺の口元を押し返す。こういう仕草なんて、はっきり言ってあざとい気もするんだけれど、それでもそう感じることすら愛しいと思えてしまうのだからどうしようもない。だから俺はできるだけ優しい振る舞いになるように、その非力な指先に口付けた。

「や、お願い、やめて」
「やだ」

 なあ、やめてって言うならさ、もっともっと本気で抵抗してくれよ。そうじゃなくちゃ、俺バカだからちっともわかんねえし、ガキだから手加減だってできねえし。

「せんぱい、俺、じぶんのしたいことしかしないから」

 切原くん、と彼女の声で呼ばれるだけで、正直俺はもう参ってしまいそうなんだ。どんなに考えたってそれは聞き慣れたおんなじ音なのに、彼女の口から出てくるだけで他のヤツに呼ばれるのなんかとは全然違くて。違うというのを認めてしまえば、その瞬間、脳ミソが砂糖漬けにされてるみたいにぼんやり麻痺してく。
 両腕でさんの細い身体をしっかりと抱きすくめたまま、右手だけを使ってふたつの手のひらをまとめて捕まえる。俯いて顔を隠そうとするのを、なんとかして解きたくて、額とか、瞼とか、とにかく見えてるところ全部にキスをした。涙なんてしょっぱいはずなのに、もう狂ってるよ。甘くてあまくて仕方がない。

「や、だよ、やさしくなんかしないで…、おねがい」

 優しくすんなって、じゃあ非道くしたらアンタ俺のもんになんのかよ。
 だいたいさァ、ずるいんすよ。

「せんぱいだって、俺のお願い全然きいてくんないじゃん」

 不貞腐れた俺の言葉をうけて、腕の中でさんが息をのむのを感じた。そうしてはじめて、彼女が俺と視線を交わす。濡れた睫毛に縁取られた、薄く膜の張った瞳がいやにキラキラして見えて。俺が横から抱き込んでいるもんだから、必然的に彼女は上目になった。俺ってさ、馬鹿みたいに単純だから、そういうのだけでほんとイチコロなんだよな。どうにも我慢ならなくて、小さく震える真赤な唇を噛み付くみたいに奪った。驚いたさんの瞬きで弾かれた涙が、重なっていた頬をゆっくりとつたう。そうしてそれが、ふたりをそっと濡らしていった。さんってばさっきからずっと泣いてるけど。ねえ、ほんとはこっちが泣きたいよ。
 まるで胸に溜まった空気を吐き出すみたいに、さんがちいさく震える声を漏らした。

「も、こんなの、どうしたらいいかわかんないよ」
「……かんたんだよ」

 俺のこと、すきになんかなんなくってもいい。そのかわり、お願いだからもう、拒んだりしないでほしいんだよ。いくらだって利用していいから、なんならいまだけでもいいから、アンタの頭んなかを、俺でいっぱいにしてよ。俺にその身を委ねてくれるなら、ぜったい、ひとつも、とりこぼしたりしないから。

「せんぱい、俺をわるものにしていいよ」









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