『あいたい』

 机上のスマートフォンが揺れて、真っ黒の画面に飾り気のないウィンドウが現れる。そこに並ぶ見慣れた四文字のラブコールが、決して甘いものではないことなどは十分に承知しているのに、読み耽っていたはずの本を迷うことなく閉じてしまう自分が心底憎らしかった。
 適当に放ってあった外着に着替えて、最低限の携帯品を上着のポケットに仕舞い部屋を出る。早々に就寝している両親を起こさぬよう忍び足で階段を降りれば、居間には煌々と明かりが灯っていた。襖を静かに開けて顔を出すと、先程までの自分と同様読書に興じていた姉がこちらを振り返る。

「蓮二さん、こんな時間に出かけるの?」
「駅前まで。を迎えに」
「そう…。気をつけていってらっしゃいね」

 慣れた名を聞いた姉は少しだけ眉を下げて笑った。その隠微な表情が意味するところすら痛いほどにわかってしまうことが、また俺の気持ちをかすかに掻く。声を潜めた出掛けの挨拶に、姉はもう一度だけ微笑んだ。ちゃんによろしくね。という姉の言葉を背に玄関を出て、最近めっきり寒くなった夜の住宅街へとひとり歩き出した。


§



 開き戸をくぐり、見慣れた制服姿のウェイターに待ち合わせである旨を告げる。いちばん奥のボックス席に座る姿を確認してしまえば、そこへと向かう足取りは慣れたものだった。どこにでもある二十四時間営業のファミリーレストラン。こんな時間であっても、ある程度の席が埋まるこの店の光景には、毎度のことながら感心する。ゆっくりと近づいて、気だるげにスマートフォンに指を滑らせている幼なじみの名前を呼べば、持ち上げた顔、目の縁はほんのりと腫れていた。

「いつも言っているだろう。あまり遅い時間に出歩くな」
「……顔見ていきなりお説教とかやめて」

 気が滅入る、と言っては重たい溜息を漏らした。お決まりのように向かいのボックスシートへと座り、飲むかもわからないドリンクバーを注文すれば、今日も変わらぬ、いつもどおりの深夜の待ち合わせだった。それは決まって、彼女の恋がどうにもならない壁に突き当たるか、そしてそのまま終わりを告げるか、そんなまったく有無を言わせない彼女主導のタイミングで催される。つまるところただ単純にいってしまえば、まこと一方的な男への愚痴披露大会で、正直なところいつも気が滅入るのはこちらの方なのだが、そんなことは口にするだけ無駄なのでわざわざ伝えることもない。
 ただ、この時間につかまるのもその勝手を受け入れるのも自分くらいしかいない。にそう思われていることが俺にとって唯一の救いであり、同時にもっとも残酷な事実でもあった。

「また喧嘩か?」

 俺の問掛けにはほんの少しだけたじろぎ、呆れと情けなさのまじる曖昧な表情で答える。

「…わかれた」
「そうか。それはもう二じゅ」
「回数かぞえないで」

 ぴしゃりと俺を窘める彼女の様子を見て、いつもと同じをあらためて確信し安堵する。ぶっきらぼうに「飲み物取ってくる」と席を立つのうしろ姿を見送りながら、一向に長続きする様子のない彼女の恋愛を、ひとつとして隠されることもなく知らされてしまうこの現状を想った。それを、彼女に寄せられる信頼だと喜ぶべきか、彼女のつれなさだと嘆くべきか。答えの出ないまま、俺たちは随分と長い時間を過ごしてきてしまった。
 湯気の立ち上る透明のポットとともに、無機質な白のティーカップがテーブルに置かれる。「今回はほんっとに最悪だよ」と彼女は合皮のシートへと滑り込んで、本日二度目の重苦しい溜息をついた。何かを思い出しているのか、ポットを持ち上げたままで黙ってしまったに、言葉の先を促すよう視線を送る。

「あいつに、お前もう柳と付き合えば?って言われたの」

 躊躇いがちにそう答えたの手が思い出したように傾いて、ふたり分のカップに注がれていく淡い琥珀からは、爽やかなジャスミンが香った。彼女が好きだから、という至極単純な理由で、我が家の戸棚にもこの香りの茶筒が行儀よく並んでいる。それはいつだったか姉が買ってきたもので、彼女はを呼んでは俺のことを閉め出し、ふたりだけのお茶会とやらを定期的に開催しているのだった。昔から姉はのことがたいそう気に入りで、もまた、姉によく懐いていた。
 不貞腐れたような顔で「ほんとむかつく」とごちた彼女が、ぶっきらぼうに言い放つ。

「蓮二が、わたしなんかを好きになるわけないじゃん」

 ああ、これだから、この会合は本当に気が滅入る。それは何度か聞いたことのある言葉だったが、何度聞いてもいい気持ちなどするはずはなかった。不貞腐れたようにうつむく幼なじみに、咎めるような台詞をうみだしてしまいそうになるのをなんとか堪えて、彼女の用意したマグカップに指をかける。そのあついジャスミンティーでかるく唇を濡らし、このあとに自分の口から出るすべての言葉が、出来る限り色のないものになるよう努めた。

「言っておくが、俺は好きだぞ。お前のことは」

 その言葉を聞いたはいちど瞳をまあるくして見せたが、それも束の間、ゆっくりと瞬きをしてから俺の顔を睨むように見据えた。たったそれくらいのことで、もしかするとひどく傷つけたかもしれないなどと、めぐる惑いが憂鬱だった。こちらを見上げたままで、彼女は重たくなった口を開く。

「…そんなの、わたしだって蓮二のことはすきだよ」
「そうか」
「でも、わたしたちのはそういうすきじゃない」

 そこまで言って、彼女の視線はうすく湯気のたつ琥珀色の水面へと向けられてしまう。伏せられた睫毛が落とす影はわずかに揺れていて、「蓮二とは、」と言いかけた彼女の声が水気を帯びるのを感じ胸が痛んだ。

「ずっとずっと、サヨナラのないすきでいたいんだよ」

 出がけに居間で声をかけてきた姉の、「あなたたちは本当に難儀ね」という言葉が浮かぶ。のふたつの『好き』がなぜ生まれ、どうしてこんな風に拗れてしまったのかは俺にもわからない。
 小学五年生のあの日、母に連れられて彼女の家をはじめて訪れたときの、母親のうしろに恥ずかしそうに佇んでいた姿。俺も彼女も、あの日からはずいぶんと変わってしまったけれど。それでもいまはまだ、同じ制服を着て、肩を並べ歩くことができている。その様子はまるで、気の置けない友人同士のようでもあったし、たまに顔を合わせる年端の近い親戚同士のようでもあった。
 いつまでたってもただふたつ変わらない、俺の意気地のなさと、彼女に焦がれる気持ち。そのふたつをもって結局、「確かにそうだな」と応えてしまう俺のせいで、ふたりはこの先もずっとナンギなままだ。
 俺の同意を受けて、安心したようにの身体から余計な力が抜けていく。俺の背が彼女の背をゆうに越し、俺の声が彼女の声より随分低くなったとて、初めて会ったときから俺たちの関係はほとんど変わらないのだ。白く細い指で目尻をぎゅ、と抑え、溢れそうになる涙を押し込んでは情けなく呟いた。

「でもだからって、いつも呼びつけてごめん…」
「気にするな。こんな時間にひとりで帰らせる方が心配だ」

 こうして、急に殊勝になってしまう臆病な彼女の願いを叶えるために、通算二十三回目の夜を認めてしまえば、もう帰ろうと彼女の手を取るくらいしか、俺に許されていることはない。けれどもまたそれが、俺にしか許されていないのも、まぎれもない真実なのだ。









191111(re:191229)......「いつものファミレスにて」