ゆっくりと溺れていくような夢をみた。たゆたうみなもに反射する光を、薄れる意識のなか、反対側から覗き込むような。


先輩、濡れる」

 おぼろげに聞こえてきた抑揚のない後輩の声に、知らぬ間に瞼がおりていたことに気づく。一拍遅れて顔を上げたら、左隣に座る財前のシャツがうっすら色を変えていた。当番中に寝こけて後輩の肩を借りてしまっただけならいざ知らず、制服の肩を濡らしてしまうなんて。開始時刻に遅れてしまうことと、髪をきちんと乾かすこととを天秤にかけて、前者をとってしまった数十分前の自分をいまさら後悔したとてもう遅い。「財前ごめん…!」大慌てで謝ったけれど、なぜか当の本人はまったく気にしていない様子で拍子抜けする。机にスマートフォンを伏せた財前は、おもむろにスクールバッグからタオルを取り出してこちらへと投げてきた。それはすこし、乱暴なやり方で。

「いくらなんでも風邪ひきますよ」

 なんとかは風邪ひかない言うても、という憎まれ口とともに淡いブルーのタオルが濡れた髪にふりかかる。柔軟剤のにおいに混じって、ほんのりと男の子のムスクが香った。
 わたしと財前とはただの委員会の先輩と後輩で、こんな風に上擦った空気を生んでしまう馴れ合いなんてこの関係にはちっとも必要ない。それなのに。この生意気な後輩との距離感は、いつからこんな風に曖昧になってしまったんだっけ?

「…財前、ええよ。わたし、ちゃんとじぶんのあるし」

 こうやってこちらが何度正しい距離を思い出そうとしても、いつだって彼はそれを無意味にするようにふるまうから。だってほら、スマートフォンから顔を上げて、遠慮なんか知らないふりでタオル越し、簡単に頭を撫でてしまえるのだ。

「もう遅いわ。おとなしく使うてください」
「…ごめん、ありがとう」

 先週許されたばかりの冷房から吹き付ける風が、剥き出しの腕を撫でている。カウンターに並んで座る土曜日の午後、三十センチ隣に確かに存在する体温をお互い感じてはいるけれど。それでも、こうやって向かい合わせにならない関係で、時折不躾に見せられる好意の側面をのらりくらりとかわしてく。それはまるでこの土曜日の穏やかな図書室のようで、そんな煮え切らない様子こそがいまのわたしたちには似合いのような気がしていた。
 頬杖をつき、視線を手元に落としたままで財前が呟く。

「先輩、きょうは自主練すか」
「うん。県大会近いからね」

 近いから、みんながオフのときに泳いでいる。公立中学の限られた設備を自由にできるほど、わたしの泳ぎは秀でていなかった。うちの水泳部は強豪などではないけれど、かといって弱小というわけでもない。その中で、お荷物になるかならないか。ギリギリをところを彷徨っていた。全国大会常連のテニス部で二年生ながらレギュラーになってしまうようなこの子にすれば、わたしの精一杯の泳ぎなんて滑稽なものだろう。
 昨年、幼なじみにどうしてもと誘われて足を運んだ全国大会。あの高揚感、緊張感、あきらかに特別なコートの中の空気。その中で輝くあの淡い髪はひどく眩しくて、いとも簡単にわたしの心を食んだ。歓声をうける彼は、とても誇らしく。そして、その姿はどうしようもなく、羨ましかった。その夏わたしが目の当たりにした出来事は、同い年の幼なじみへの憧れと、ほんのわずかな妬みとを確かにわたしに植え付けた。
 そんなわたしの心を知るはずもない財前は、時折、まるで何も怖いことなどないという素振りでこの関係にゆるされるはずのない提案をする。

「なあ。自主練なら、今度見に行ってもええですか?」
「え…?」
「見てみたいすわ。先輩の泳ぐとこ」
「…あかんよ。授業以外は水泳部しかはいられへんし、」

 いくら自主練ゆうても、と言おうとしたところで、財前がこちらへと顔を向ける気配がした。その視線に応えようなんて、軽い気持ちで彼の方へと向き直ってすぐに後悔する。少し長い前髪の隙間から覗くふたつの瞳が、想像していた何倍もあつい。

「部長はええのんに?」
「……なんでそこで蔵がでるんよ」

 こんな風に突然向けられた彼の不機嫌の理由がすぐに思い当ってしまうのだから、わたしの知らないふりも大概だ。先週部内で行われた選考会の前日。誰にも気づかれないようプールサイドに招き入れた幼なじみに、こっそりタイムを計ってもらったこと。部の仲間に知られたくなかったわたしの浅ましさと、きっと気づかれないだろうなどという浅はかさ。その行為はとても情けない上にひどく軽率で、あきらかなルール違反ではあったけれど、だからこそ彼にしか頼めなかったわたしの脆弱さを、財前はきっと見抜いてる。

「幼なじみやったらええんや」

 とくべつやから?という問いつめる視線に、喉の奥がきゅっと詰まるような感覚が襲った。無意識に、息のつける水面を探して視線が泳ぐ。「目ぇ逸らすなや」という低い声がして、左手で掴まれた二の腕が熱い。熱いのに、財前のタオルがかかる首の裏側が寒気がしたときみたいに粟立って、求める水面はどんどん遠のいてゆく。手を伸ばしてくる彼のすこし乱暴な仕草がわたしの唇がふるわせていることもお構いなしに「それやったら、」と財前は意地悪く笑った。

「俺のことも、とくべつにしてくれません?」
「な、に…いって、」
「気づいとるんやろ?」

 ガタン、と椅子が弾んで、立ち上がった財前に見下ろされてしまえば、あっという間に水底。その瞳の中に揺らめくものを無視できるほど、わたしは。「財前、まって」なんて苦し紛れに声をあげたところで、自分の非力さを痛感するばかりだ。窓から射す夏のはじめのあかるい光が、彼のピアスに反射する。

「せやから、もう遅いねん」

 財前に向けられている濡れたまなざしで、やっと乾き始めた髪がもういちど水気を帯びてゆくのを感じ、ようやく悟る。わたしはもう、とっくのむかしに溺れてしまっていたのだ。うまく躱していたつもりでいたけれど、本当は。
 無駄な抵抗だと知りながら、押し返そうと触れた財前の右肩はしっとりと濡れていた。ああ、そうか。これは、わたしが濡らしてしまったんだね。これまで重ねてきた臆病なじゃれあいで、もうわたしたち、手遅れなほどにびしょ濡れだ。だから今度こそ、知らないふりはやめておおきく水を蹴ろう。わたしだって、ふつうの女の子より、すこしくらいはうまく泳げるはずだから。
 瞬きのすきま、息のかかるような距離で財前が囁いた。

「アンタも道連れや」

 生意気な後輩の、生意気な号砲で、ふたり、はじめての夏を泳ぎだそう。









191109