夏も終わったというのにうだるような日射しが降り注ぐ下で、花が咲いたように可憐な笑顔を浮かべる女の子と、その子の差し出すタオルを、はにかんで受け取る男。まさに春が来たというに相応しいふたりを見て思うのだ。この一ヶ月、まるで毎日が通夜かと思うほどの辛気臭さでただひたすらに後悔の念をつぶやくに、懲りずに付き合い続ける自分こそが、ほんとうは誰よりも愚かであるのだということを。

「そろそろ見んのやめたらええんちゃう」
「忍足に言われなくたって、そんなことわたしがいちばんわかってる」

 でも視界に入ってくるんだもん、と言って彼女はため息をついた。フェンスを握る手が白くなっていることにも気が付いていないくせに、だもんだなんて軽口よく言えた。「手ぇ痛なんで?」強く力の込められた指をそっと解いて外してやれば、情けない笑顔。誰にも見せることのないその顔を、彼女にさせてやれるのは自分だけ。その事実だけが、ずいぶん長いこと俺を辛抱させていた。テニスコートに背を向けて、フェンスに寄りかかった瞬間、後輩の呑気な声が青空に響き渡る。ししどさ~ん!それを聞いては、いよいよ力なくうずくまった。

「なんかいい加減、もう疲れたな」
「それ、もう何度も聞いとるけど」
「ほんとに毎回そう思ってる」
「…せやんなあ」

 ほんとだよ、と笑う顔がひどく痛々しい。

「なんで亮なんか好きになっちゃったんだろ」

 幼馴染という残酷な関係を、壊すことなく保つために彼女が心を砕いてきた時間を思えば、その呟きを肯定することも否定することも憚られた。秘める想いを、他の幼馴染たちにも、友人たちにも、誰一人にだって気づかれてしまわないように彼女は努めてきた。だからこそ、俺がその気持ちを言い当てたときのの顔といったらなかった。もちろん初対面で気づいたわけではなかったが、岳人とジローの悪ふざけに小言を言いながらも付き合う姿を見て、ただのクラスメイトから気の置けない友人へと関係が変われば、それは一目瞭然という様子でいつもそこにあった。

「じぶん、宍戸のことすきなんや」
「……なんか最近ぬるい目で見てるなって思ってたらそれかあ」
「まあ、だれもきづいてへんやろ。跡部はしらんけど」
「跡部くんなんてしゃべったこともないし」

 そう言って彼女は俺の肩をグーで叩いた。「お願いだから言わないでよね」と言って俺の前で初めて泣いた彼女を、こどもをあやすように抱きすくめたことをいまでも思い出す。彼女の初恋はとても純粋だった。それゆえに彼女は何度も道を間違えた。学祭で声をかけてきた高等部の男とてきとうに付き合ったことも、その男相手にいとも簡単に処女を捨てたことも、気のないことを理由にあっさり別れを告げられたことも、そしてそのすべてを、宍戸には決して悟られないようにしていたことも、俺は知っていた。の願いはいつだって、宍戸が、宍戸の大切にするものを、誰に脅かされることもなく大切にし続けられること、ただそれだけであった。誰に、のなかにはもちろん彼女自身も入っていて、それが彼女をたいそう苦しめた。
 がもう何回目かわからないため息をついて俯く。

「でも今回ばかりはほんとに終わりだなあ」
「なん、やめれるん」
「わっかんない、…けど」

 昨日のアレは効いたよ、と彼女は顔を上げて下手くそに笑った。
 アレ、というのは至極単純な出来事だった。昨日、岳人とジローが宍戸を揶揄うのに、はじめてが便乗した。そのとき宍戸が照れ隠しで言った「お前もこいつらなんかとばっかいないで彼氏くらいつくれよ」という言葉。彼女は咄嗟に笑顔を取り繕い、サイテーと言って宍戸を小突いた。本当に最低だった。もちろん誰も悪くなかったし、誰も責められるはずはない。しいていうならば、彼女の気持ちを知りながら、何一つ守ってやるようなことができないでいる俺こそ、いちばんにどうしようもないのだと思った。
 忍足、とうつろな顔で笑ったが俺の名を呼んだ。

「あのさ、最低なこと言っていい?」

 もう涙などとっくに涸れてしまっていたのかもしれない。宍戸に恋人ができたと知ったときには、すでに。

「付き合うフリ、してくれない?」

 彼女が苦し紛れに出した提案を、最低だなどと言えるはずがなかった。の隣にいるために、告白してきたよく知りもしない女たちとてきとうに付き合ったのは俺も同じだった。絶対に悟られないように努めてきたが、との関係を妬むやつもいて、早々に別れを切り出したことさえある。一ヶ月前のあの日、心のどこかで(ついにこの日が来た)などと考えてしまった卑しい自分がいたのも事実だ。本当は、もっと、もっともっとはやく、俺に助けを求めて欲しかった。だから、彼女がそれを望むなら、たとえそれがフリだったとしても、救いようのない最低な提案だったとしても、叶える以外の道は残されていないような気がした。風にさらわれた髪を耳にかけてやると、彼女は睫毛をふるわすようにまばたきをした。

「ええけど、どうなっても知らんよ」
「…どうもなんないでしょ?わたしたちだったら」

 巻き込んでしまう、というかたちで俺を傷つけることに傷つく彼女の顔はなによりもつらかった。が、俺は自分を絶対に好きになることなどないと思っていることは、いまさら確認するまでもない。そう仕向けてきたのは他ならない俺自身だったし、俺もそれが彼女の救いになることを望んできた。だけど「ほんとうにもう終わりにしたいの」という彼女の嘘は、あまりにも痛くて。
 ほんま、俺かて、そんなん言われるとさすがに効くなあ。

「後悔しても知らんで」

 かしゃん、とフェンスの軋む音。どちらからともなく合わせた唇は、ひどく乾いていて、おそろしいほどに冷たかった。二度目に抱きしめた彼女の肩は相変わらず細くて、いまにも壊れてしまいそうだ。背中にあたる冷たいフェンスからも、強くなってきた風からも、テニスコートからうっすらと聞こえる朗らかな声からも、今度こそ、すべてのものから彼女を守るつもりで、回した腕に力を込めた。シャツの胸にあたたかさを感じたことで、腕のなかで身じろいだが、涸れはてていたはずの涙を流したことに気づく。
 こんな最低なやり方でしか、俺は彼女を慰めることができない。風が髪をさらって、彼女の髪とまじる。お互いに、いちばん望むことを隠しあってゆくとしても仕方がない。それでも、お互いの体温で欠けたこころを埋めあうことができるなら、誰が、誰になら、ふたりを責めることができようか。

「忍足、たすけてよ」

 ほとんど消えてしまいそうな声でが囁いた言葉をとりこぼしてしまうことのないように、いっそう強く互いに隙間を埋めあった。すべてを受け止めたその先がたとえ地獄のような場所でしかないとしても、いまはただ、どうにもならないふたりのかたちを認めてあげよう。









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