どこかのだれかが歌う流行りのラブソングがドアの隙間からもれていた。あ、いま声裏返ってた。ドアを一枚隔てただけで、素人が歌うアイラブユーは途端に安っぽくなる。廊下の奥、きっとこの店でいちばん盛り上がっているあの広い部屋に戻りたくなくて、そちらに背を向けたままでスマートフォンを見た。終わりまでの時間はまだ半分以上も残ってる。

、なーにサボってんだよ」

 突然近いところから咎める声がして振り返ると、ブレザーのポケットに手を突っ込んだ丸井がすぐ後ろに立っていた。さっきまで女の子たちにせがまれてアイドルになりきっていたとは思えないほどに色のない声。別に、飲み物とり行っただけだし。そう言いかえせば、彼はいとも簡単に肩を寄せてこちらの手元を覗き込んでくる。ブレザーとブレザーが擦れたところから、いろんな種類の煙草やら食べ物やらが混ざりあったカラオケ特有の匂いがたちのぼった。

「なに?」
「ジンジャーエール」
「いいね。ちょーだい?」

 言葉尻をあげておきながら、少しも返事を待とうとしない。あっという間にずず、と音がして、ドリンクバーのちゃちなカップが軽くなる。飲んでもいいなんてわたしはひとことも言ってないのに、丸井はいつも勝手だ。顔のすこし先で揺れたワインレッドからも、制服とおんなし匂いがした。きっとわたしの髪にも染みついてしまってる。なんてしょうもないお揃いだろう。

 女の子の食べかけも飲みかけも一切躊躇しないこの男の恋愛は、いつだってちっとも長続きしなかった。そんなことは誰の目から見ても当然の結果だった。彼が歴代の彼女という彼女から言われ続けた、他の子とベタベタしないでよ!というお決まりのセリフを受けたときの顔。その冷めた顔を向けられてしまった彼女たちの、そのあとに続く言葉はいつもこうだ。もうブン太なんかしらない!別れる!それは彼に心底呆れた声のこともあるが、大抵は引き留められたいがためのかわいらしいわがままだった。けれど、そのことばを言ってしまったらその瞬間にジ・エンド。丸井は彼女たちを絶対に追いかけない。そして彼はわたしにこう言うのだ。「、俺また振られたわ」と。その言葉にはいつだって緊張感など欠片もなくて、繰り返されるそれは控えめに言っても最低だった。

 丸井がひとつ、ため息をつく。すぐ隣に寄りかかっていた彼は、ずるずるとその場にしゃがみこんで窺うようにこちらを見上げてきた。くい、とスカートの裾を引かれれば、目線を合わせるしかなくなってしまう。答え合わせなどしなくても、まるで息をするみたいに彼に寄り添える。だってわたしたちは、お互いが認める、なんとも気安い友達同士なのだから。
 ゆっくりと腰を落としていく途中、丸井の向こう側、七色の光を通すドアが視界に入る。わたしたちが帰るべきそのドアは、ちかちかしていてどうにも目に痛かった。

「なあ、もう抜けねぇ?」
「え、やだよ」
「んだよノリわりぃなー」

 甘えるように制服の袖を引いてくる丸井の手を振り払うことはできず、かろうじて口先だけがそれに抵抗していた。教室のなかで輪になって馬鹿話をしているときのわたしたちはいつだって、ぎゃははと下品に笑いあったり、ボディタッチなんて呼べないがさつさで互いを小突いたり、まるで同性のような気安さで肩を組んだり、している。そうやって輪のなかにいることはとても心地よくもあったし、同時に少し息苦しくもあった。わたしたちは、あの狭い世界の中で立ち位置を間違えないように、自分の振る舞いを決して間違えないようにと、気を遣いすぎていた。お互いがお互いのそれに気づいたとき、わたしたちはきっとこの関係を生み出した、と思う。
 それでも、こんな温い関係にだって最低限の守らなきゃならないルールくらいはある。少なくとも、わたしには。

「そんな抜けたいんなら、彼女と抜けたら?」

 最低限のルールくらいなくちゃ、わたしはもう踏み外してしまいそうなところに立っている。

「だってアイツこーゆー集まり大好きだもん」

 丸井は少しだけ考えるふりをして、すぐにその顔を仕舞いそう言った。つい先刻、マイクを持った男子たちの真ん中できゃあきゃあ言われている彼氏のことを、いまにも溶けてしまいそうな目で見つめてたあの子のこと、思い出しているのだろうか。「だから抜けるとかねぇよ」と呆れたみたいな、諦めたみたいな曖昧な笑顔。呆れてるのは、諦めてるのは、彼女に?それとも自分に?

「丸井だってさっきまで中心いたじゃん」
「うん、だから」

 もう十分お勤め果たしただろ?なんて、わたしが絶対に許してしまう言葉を彼はもうわかりきっている。そして、わたしが部屋を出た理由すら「お前だってもう疲れちまったからこんなとこいたくせに」なんて当たり前のように言い当ててしまうのだ。おんなじ感覚を持っているということと、それを共有してきてしまった経験とは、ある種脅迫めいた力をもっていた。
 手のなかのジンジャーエールを奪い取った丸井はそれを飲み干して立ち上がる。ねぇわたしそれ、一口も飲んでないんだけど?

「いーじゃん。このまま抜けよ」

 丸井の空いた手がわたしの肘を掴んで、そのまま軽々と引きあげた。されるがままになっていたわたしは丸井の狙い通りの位置に立ち上がり、まるでその動作のついでみたいな気軽さで、掠めるように唇が触れる。くちづけなんてとても言えない軽薄なその行為は、生姜の辛さなど欠片もない、安っぽいシロップの香りがした。

「あーあ、また振られっかなァ」
「ならなんでするかなあ」

 ちっとも堪えてないような声でつぶやいた丸井に、わたしはまた呆れたふりをする。その他大勢といるときのように、間違いを知らない振る舞いをこいびとの前でもすればいい。正解はいつだって簡単で、理解も出来てるはずなのに、そうすることは彼にとってとてつもなく難しいみたいだ。そうして彼はこうやって、ふたりの間でだけ通用することのように甘い声を出す。

「そしたらまた慰めてよ」

 教室の中で消耗したじぶんたちのこと、少しずつ埋めあわせ合うだけのはずが、どこで間違えてしまったんだろうか。もう何度となく聞こえてきた、お前ら付き合ってんの?という問いに、一ミリのずれもなく「え?ただの友達だけど」と答えることが出来るだけの時間を過ごしてきたはずなのに。そこにうまれるふたりの笑い声は、それはそれは心地よかったはずなのに。おこがましくも、それを手ばなしたくないなんて思ってしまったから?
 気の、おけない同士でいたかった。でもわたしは、それと同じだけ、失いたくないと願ってた。

「俺さ、お前といんのがいちばん楽」

 そうやって丸井の少しハスキーな声がその言葉を奏でるたびに、投げ出された自分の手に彼の体温が触れるたびに、まるで真綿で首を締められているような感覚で、いつもすこしだけ眩暈がした。じわじわと、あなたはわたしを追い詰める。いつの日か、踏み外して落ちていってしまうかもしれなくても、いたずらに絡められたこの指先を解くことができないでいる。

「お前は?」

 それでも「わたしだってそうだけど」と何回目かわからない過ちでこたえてしまう自分を、ほんとうはもういっそ、絞め殺してしまいたいと思ってるんだ。









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