目の前にそびえる、教室よりも少しだけしっかりとしたつくりのドアを、コンコンコンと規則正しく三回ノックした。返事を待たずにそっとドアを開けると、すきとおるような秋の風が通り抜ける。その風にのせられてきたのだろうか、ませた甘い香りが微かに鼻をくすぐった。この部屋の主は、いつもの指定席ではなく数脚並べられたパイプ椅子のひとつに座り、書類の束に視線を走らせていた。彼の前には角の揃った紙の山がいくつも連なっている。
 跡部は瞬きの延長みたいな軽やかさで一瞬、こちらに視線を投げた。

、悪いな」
「いいよ、別に暇だし」

 跡部と違ってね、とは言わなかった。体育祭や学園祭といった全校を上げた行事はもちろん、定例の全校集会ひとつとっても、この学校で行われる行事に彼が向き合わなくていいものなどはひとつもなかった。けれど、そうさせてるのはまぎれもなく、彼が跡部景吾であるという事実そのものなのだと思う。彼が跡部景吾であるがゆえに、生徒会長に舞い込む職務は眩暈がするほどに多くなる。
 わたしは跡部の斜め向かいの席に腰かけて、ふたりの間に積まれた書類を順番に手に取った。これを一枚ずつとってホチキスでとめる。誰にでもできる簡単な仕事だった。普段であれば、生徒会の皆さんがやるべきはずの雑務であって、ただの跡部のクラスメイトであるだけのわたしがここにいるはずもない。ではなぜか。跡部の後ろにこれまた山のように積まれた段ボール箱と紙袋に目を向けた。

「あいかわらずすごいねえ」

 わたしの感嘆に、跡部は「まぁな」とひとつ息を吐いた。窓から流れ込む風が跡部の淡い髪を揺らす。秋の匂いに、彼特有の甘い香りが混ざる。今日は朝から学校中が非日常の空気を纏っていた。
 こんな日は年に三回だけあって、ひとつは女子たちがこぞって意中の相手にチョコレートを贈るバレンタインデー。そして、律儀な男の子たちからのお返しに浮き立つホワイトデー。残りの一つが今日、跡部の誕生日。休み時間のたびに教室には行列ができ、少しでも不在にすれば机にはプレゼントの山。下駄箱は回収しても回収しても絶えず放り込まれるので扉はあきっぱなしで、ローファーなど見る影もない。跡部の誕生日ってクリスマスと正月が一気にきたみたいな感じだよね、と去年この光景を教室で一緒に眺めていた滝くんは笑っていたけれど、中等部最後だからなのか今年はより一層のお祭り騒ぎだった。

「ちゃんと全部目を通すんでしょ」
「あぁ。最低限の礼儀だろ」
「跡部はさー、ほんとモテるべくしてモテてるよね」

 紙の束をつくってホチキスで止めながら、跡部に直接渡すことの出来た女の子たちがきゃあきゃあと色めきだっていた姿を思い起こす。跡部は紛うことなくこの学校の王様で、気品漂う見目のうつくしさや中学生らしからぬ洗練された所作が女の子たちの気を惹くのはもちろんだったけれど、その手渡されたひとつひとつを軽んじず受け取り、向けられた好意を決して馬鹿になどしない誠実さが、彼の信望をより一層確かなものにしているのは明らかだった。でも、今朝教室でプレゼントを山ほど抱えた彼を「キャー跡部様すごーい!」と裏声で称えたら、「気色悪い声出すんじゃねぇ」とチンピラみたいな形相で睨まれた。

「それにしても、誕生日なのにこんな雑務、たいへんだねえ」
「仕事だからな」
「しかもひとりで」
「それは俺が自分で決めたことだ」

 本来ならばここにいるのは生徒会の面々であるはずだったけれど、こんな日に堂々と活動していたらきっとドアの外は出待ちの大行列になっていたに違いない。去年、テニスコートのまわりが寄せる女子たちの人波で大変なことになっていたのを思い出した。今年の跡部は、気づかれないようひっそりと、人払いをしたこの部屋に籠ることに決めたらしい。誕生日だというのにご苦労なこった。HRの最中にスマートフォンが揺れて、放課後に生徒会室で資料整理を手伝ってくれという旨のメッセージが来たときは驚いたけれど、三年間同じクラスの腐れ縁で、気安い友人として過ごしてきた時間を思えば納得の選択なような気もした。何より跡部がHR中に連絡してきたことに動揺して、慌てて不細工なクマが頭の上で丸を作っているスタンプを送ってしまったのである。

「でも、樺地くんもいないのはびっくりした」
「あいつは部室だ。二年でミーティングやってる」

 至極当然だという風に跡部が答えるので、愚かなわたしはまた余計な事を言ってしまったと後悔する羽目になる。けれど慌てて平静を装い、気の抜けた相槌を打ったら「あのクマみてぇな不細工な顔してんな」と鼻で笑われた。跡部は本当に、感傷なんかとは程遠い存在で、いつだってこっちが勝手にセンチメンタルになって恥ずかしい思いをする。夏休みがあけたときも、跡部の見慣れぬ短髪を目の前にしてなぜか泣きそうになっていたら、「んなアホ面して、見蕩れてんのか?」とやっぱり鼻で笑われた。
 わたしが黙ると、パチン、パチンとホチキスの音だけが響く。





「で?」
「え?」
「お前はいつ寄こすんだよ」

 突如沈黙を破る不機嫌そうな声に驚いて顔を上げると、跡部は書類を目で追ったまま憮然とした表情をつくっていた。もしかして誕生日プレゼントのこと言ってる?と問えば、「ほかになにがあんだよ」とこちらを向いて眉を寄せる。いままで一度だってやり取りしたことなんかないくせして、いったい何を言っているんだ?氷帝の王様は、今日一日中みんなに追いかけ回されて、ついに頭がおかしくなってしまったのかも知れない。

「まさかないなんて言わねぇよな?」
「逆に、なんであると思ったの?」

 静かな生徒会室に、跡部の舌打ちが響き渡った。おーこわ。プレゼント山脈を背景にそんなこと言われると、なんだか笑えてくる。平民に贈り物を強請る王様。だいたい、跡部にプレゼントなんて恐れ多くて、何を渡すか考えるだけで次の誕生日になってしまいそうだ。去年滝くんが、自分でブレンドしたというハーブティーを渡していたのにはとても感動した。そしてなんとそれだけにとどまらず、お裾分けといって丁寧にラッピングされた小箱を渡してくれたときの滝くんといったら、控えめに言って女神様に見えたものだ。
 プレゼント、ねぇ。眉根にシワを寄せたまま手元の書類に視線を落とす跡部をみて、どうしたもんかなあと心のなかで呟いた。三日前に衣替えしたばかりのまだぱりっとしたブレザーのポケットに手を入れれば、今朝買ったばかりのチョコレートがふたつ、入っていることに気づく。いやいやいや。こんなもの、跡部様に渡せないでしょうよ。ひとつ20円のチョコレートを召し上がる王様。冗談にもならない。

「ね、跡部、ほんとうに欲しい?」
「あんなら寄こせ」
「そんなにいっぱいもらってるのに?」
「いいから。寄こせっつってんだろ」

 訝しげに眉を潜めてみせたわたしに、跡部はまたも舌打ちをした。その不遜な響きとは裏腹に、こちらを睨む群青色の瞳はあまりにもまっすぐだ。わたしは観念して、ポケットから取り出した手を机の上で開いた。ころんと投げ出された、牛柄に赤い文字と茶色にカラフルなロゴの二つのチョコレート。「お誕生日おめでとうございます」という言葉を添えたら、「初めて言われたな」と笑うのでなんだか面映ゆかった。言われてみればいつも同じ教室にいたせいで、目の前で繰り広げられる喧騒に圧倒されるばかり。一度もおめでとうなどと言ったことはなかったかもしれない。
 そんなことを考えていたら、跡部がミルクチョコを手に取っておもむろに包みを剥ぎだした。

「え、ちょっ、そんなの…」
「んだよ」
「ぜったい口に合わないから食べないで…!」
「じゃあどうすんだよ」

 思わずこぼれた悲痛の叫びに、跡部はまた少し機嫌を悪くした。いや、まあその通りなんだけど。でもとりあえずわたしの前では食べないで欲しいのだ。跡部にチロルチョコを食べさせたなんて知れたら、正直言って命が危うい気がする。きっと、ファンの子たちに殺されてしまう。そしてそれよりなにより、白と黒の斑模様の上に描かれた安っぽい赤いmilkの文字が跡部に不似合いすぎて、目も当てられない。見るに堪えないとはまさにこのことだ。それなのに、そんなわたしの懸念などつゆ知らず、跡部は銀紙をポイと机に投げ出した。あ!とわたしがあげた声もむなしく、四角いチョコレートは跡部の薄い唇の間に放り込まれてしまう。お願いだからやめてー!と両手で目を覆ったけれど、彼が発した言葉は想像とは全く逆のものだった。

「悪くねぇな」
「へ?」

 王様の思いもよらぬ一言に思わず素っ頓狂な声を上げてしまう平民。跡部は、ファンの子たちが見たらもれなく卒倒しそうな不敵な笑みを浮かべてこちらを見やる。「うまいって言ってんだよ」だなんて、やっぱり彼は一日中追い回されていたせいでおかしくなってしまったに違いない。わたしは頑として譲らないという気持ちで跡部をにらみつけた。

「嘘だ」
「んなくだらねぇ嘘つくか」

 ぜったいにそんなはずない。たった20円のチョコレートがおいしいなど、そんなはずはないのだ。彼は一瞬呆れたような顔をして「なんつー眼ぇしてんだよ」とわたしの額を小突いた。もはや、わたしたちの手は完全に止まっている。わたしはホチキスを投げ出してしまったし、跡部の手はもう書類の束を持ってはいなかった。ふ、と一瞬呆れたような顔をして彼はこう言った。

「おまえが寄こせばなんでも甘いだろ」

 その言葉ははっきり言ってまったく意味がわからなくて、わたしは思わず首をもたげた。もしかしたらあのチロルチョコ、何か悪いものでも入っていたのかもしれない。呆けているわたしの腕を突然、跡部の左手が掴む。簡易的な折り畳みの会議机をひとつ挟んだだけの距離で、跡部に捕らえられている。彼の有無を言わさぬ眼差しがわたしの体温を急激に上げた。これまでだって、軽口を言い合うことで、他の女子生徒たちよりいくらか近い距離で向き合うことを許されてはいた。けれど、こんなのはどう考えたって間違った距離だ。落ち着け。冷静になれ。そう思えばおもうほど目の前にあるうつくしい群青がわたしを惑わせる。
 跡部はひとつ息をついてから、にやりとその端正な顔をゆがめた。

「確かめるか?」

 その言葉が導く動作が一瞬で脳内を駆け巡る。いたずらを企むこどものような眼をする跡部をどこか他人事のようにみたけれど、彼の熱量がまっすぐわたしに向かっていることはどう考えたって明らかだ。彼に初めて見る顔を向けられてしまっても、それでもまだ、何にも気づきたくなんてなかった。それなのに、気づかないでいられるほど幼くもなかったし、気づかないふりをできるほど、器用でもなくて。わたしの腕をつなぎとめる左手はそのままに、跡部は右手だけで器用にチョコレートの包みを剥がしてゆく。

「確かめさせてやるよ」
「い、いらないよ」
「まあ遠慮すんな」

 見慣れた包み紙がはらりと机から落ちた。ネオンサインのような文字がひらひらと揺れている。とても抗えないような力で引き寄せられ、わたしは簡単にバランスを崩してしまいそうになった。前のめりのまま片手を机につけば、その反動でさっきまで彼が手にしていた紙の束がばさりと音をたてて落ちてゆく。もう、何もかもがめちゃくちゃだ。わたしたちはもはや、ほとんど触れてしまいそうな距離で向き合っていた。むせかえるような甘い香りがゆらゆらと思考を麻痺させる。跡部はわたしからのプレゼントを見せつけるように口に含み、空いた右手をこちらへ伸ばしてきた。慌てて肩を押し返したけれど、わたしなんかの非力な抵抗では彼はびくともしない。

「待ってまってまってまっ…」

 跡部の薄くうつくしい唇が噛みつくようなかたちで降りてきて、それはいとも簡単にわたしに重なった。同時に、ちゃちな甘さが口のなかいっぱいに広がる。甘い。あますぎて、おかしくなりそう。やさしく撫でつけるように、跡部の舌がわたしの舌にからむ。それはとてもやわくて、熱っぽくて、残酷なほどに慈しみ深かった。どろり、とチョコレートの合間からヌガーが溶け出してゆく。コーヒーの安っぽいほろ苦さに眩暈がした。そのふたつが溶けてあとかたもなくなると、名残惜しそうに唇がはなれてく。なごりおしいと感じているのは、果たしてどちらだったのだろうか。いつのまにか腰を抱かれていた左手がもう一度引き寄せられて、そのうつくしい顔が耳元に寄せられた。ふたたび彼の香りが強くわたしを包む。そうして、耳を擦るような甘やかな声で「好きだ」と囁き、ようやく跡部はわたしを解放した。
 全身の力が抜けて、支えを失った身体が糸の切れた操り人形みたいにパイプ椅子に投げ出される。呆けた顔で斜め上を見上げたら、自信満々な王様の顔。

サン、ご感想は?」


 なにもかもが甘すぎて、このまま溶けてしまいそうだ









191004......あなたを想うと心がやけてしまいそう ( happy happy birthday to you ♡ )