「腹減ったな」

 片手で支えたメニューをゆっくりと捲りながら跡部がそう呟いて、ふたりの間に流れていた気まずい沈黙を破った。テーブルに置かれたままの色とりどりのサラダやパスタやパンケーキの写真をぼんやりと眺めていた私は、そこで初めて、店内に流れるさわやかなボサノヴァに気づく。両手で握りしめていたスカートにはいつの間にか皺が寄ってしまっていて、私は慌ててその手を離した。
 跡部が持っているというだけで、ありふれた合皮の表紙もなんだかすごく高級なものに見えてくるから不思議だ。同じネクタイをしているし、おなじカッターシャツを着ているのに、彼にはとても中学生には見えないような色気があった。淡い栗色の髪も、テニス部にしては白い肌も、メニューを追う瞳の群青も。このひとをかたちづくるすべてが、ひどく神様に贔屓されているように感じる。そして、長く美しい指先が動きを止めて、強いまなざしが私を射抜いた。

「決まったか?」
「あ、えと…うん」
「そうか」

 彼はとても洗練された所作で、ウェイターを呼んだ。当然、すみませーんなんて大きな声を出したりしないし、なかなか気が付いてもらえなくてまごついたりもしない。一挙手一投足が嫌味なくらいにスマートで、なにもかもが、私なんかとは違っている。「お伺いいたします」というやわらかな声と同時に跡部はこちらに視線を投げた。メニューなどまったく頭に入っておらず、ちっとも決まってなんかいなかった私は、開いていたページの一番上を慌てて指さした。それを見た跡部が、さも当然というように「プレーンのパンケーキを、それから」とオーダーを続けて読み上げてゆく。無言でメニューを指すなんて、いったい何をしてるんだろう。とてつもなく恥ずかしくて、いっそ消えてしまいたくなる。一瞬にして顔に熱が集まってくるような気もしたし、青ざめて血の気を失っていってるような気もした。
 最後に、跡部は静かにメニューを閉じながら「食前にアイスティーとアップルジュースを」と添えた。しゃんとしたウェイターのなめらかな復唱のあと、「お願いします」と丁寧に述べて注文を終えた跡部は、このお洒落なカフェの中でも一際かがやいてみえた。

「お前、それだけで足りんのか?」
「うん、あ、」
「あ?」
「あ…、あとべは、けっこうお腹すいてるんだね」

 簡単な会話もままならないくらい、自分が戸惑っていることがなんだか可笑しかった。自然に笑おうとしたつもりだったけど、果たしてうまくできていただろうか。そんな不細工な私の呟きに「まあな」と微かに笑った跡部を見て、あらためてこの状況の非常さに思いを巡らせた。


 そもそも、私と跡部はただのクラスメイトであって、放課後にこんな小洒落たお店で向き合うような関係ではない。ましてや、今日は夏休み最後の登校日で、私がいつも休み時間や放課後を共にしている友人たちは、ファミレスで宿題を見せ合ったり、久々の再開に浮かれ、連れだってカラオケへ向かったりしているのだ。私だって本当は、カラオケに誘われていたし、宿題だって実はまだ少し残ってる。それなのに。HRが終わった途端、隣の席から「このあと少し付き合ってくれ」という想像もしない言葉が投げられたのだ。そうして、彼の有無を言わさぬまなざしに、すべての疑問も反論も忘れて二つ返事で応諾してしまい、別に手を引かれているわけでもないのに、教室の喧騒の中を颯爽と歩いていく跡部の背中を追いかけてしまっていた。なぜか。


「で、なんだって?」
「え、」
「反論があるなら聞いてやる」

 跡部の顔には、反論などあるわけがない、と書いてあった。彼の驕りのない自尊心を目の前にすると、自分の脆弱な心が並べる反論などすべてたわいのないものに思えてしまうから困る。跡部は絶対に威圧的な態度をとったりしないのに、こっちが勝手に萎縮してしまうのだ。ほんとは私だって、クラスメイトに対して萎縮だなんて、したくなんかない。
 「失礼いたします」という穏やかな声がして、わたしの前にグラスが置かれる。グラスの中で、氷の間を細かな林檎の果肉がゆらゆらと揺れていた。


 前に一度だけ、跡部が校内の自販機で売られている缶コーヒーを飲んでいたので、そのもの珍しさを指摘したら「まあ、飲めねぇ味じゃねぇな」といって笑ったので驚いたことがある。確かそれは、芥川くんがココアと間違えて買ったとかいって、跡部のもとへ持ってきたものだったはずだ。(はたしてココアとブラックコーヒーを間違えるものなのかは正直よくわからなかったけど)そして、そのときの私ときたら「実はコーヒーも紅茶も苦手なんだよね」などと、まったくいらんことを言ってしまって、その会話を即座に激しく後悔することとなった。それなのに跡部が、まるで気のおけない友人みたいな調子で「ガキだな」と悪戯っぽく笑いとばしたりするので、缶コーヒーを飲んでいたことなんかの百倍は驚いたのを覚えている。


「私は、跡部にはつりあわないとおもう」

 逃げ出したい気持ちを必死で押し込めて、勇気をふりしぼってもういちど繰り返した言葉にも、跡部は顔色一つ変えることはなかった。先ほどと変わらない眩暈のするような群青が、私を見つめ続けている。

「なぜそう思う?」
「なぜって…」

 美しく整った薄い唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。怒るわけでも、責めるわけでもない、落ち着いた彼の一言ひとことに、私はなぜか追い詰められてゆくような気がしていた。聞き分けの悪い子供を諭すように、やさしく、けれどもはっきりと、彼は続けた。

「あのな、俺 ”に” 合うのかなんてのは」

 こんな風に跡部に見つめられていたら、とても目なんて逸らせないし、逃げ出すことも、うつむくことすら許されない気持ちになる。だって、彼の言葉には一切の迷いがない。

「俺がきめることだろうが」


 きっと跡部は、私がいつも真っ赤なパックジュースを飲んでいることを知っていて、最後にドリンクのオーダーを付け足した。
 彼は、200人もの部員を抱えるテニス部の部長で、1500人を超える生徒たちからの承認を得た生徒会長で、そして、クラスメイトで、隣の席の男の子だ。私は、彼とは部活も委員会も違った。けれども、彼が校内外を問わずたいそうな人気者であることも、一年生から同級生まで男女問わず憧れ慕われていることも知っているし、彼がすべての期待を一身に背負い、満を持してその頂にたっていることも知っている。知っているのは、クラスメイトだから?いつも、隣の席で授業を受けているから?それともこの夏、友人たちに連れられていった全国大会で、観ている方が逃げ出したくなるような混沌とした喚声のさなか、その一切をはらすように、コート上で毅然として立つ彼の姿を目の当たりにしてしまったからだろうか。

「誰に何言われたのか知らねえが」
「なにも…!」

 思わず大きくなってしまった声に、自分がいちばん驚いてしまう。跡部は今日はじめて眉根をよせて溜息をついた。さっきから、鞄の中でスマートフォンが震え続けている。あとで履歴を見るのがとてつもなく恐ろしかった。といっても、私が跡部について教室を出たことは、誘ってくれていたみんなからすればドタキャンだし、そもそも、跡部に連れられてなんていうこの状況は、多くの生徒にとって大事件に違いなかった。けれど、一体どうしたの?なんて、こっちが聞きたい。

「……別に、言われてなんかない、けど」

 私の言い分に、跡部がもうひとつだけ息をついてそっと目を伏せた。その顔がなぜか哀しんでいるように見えて、胸がぎゅっと掴まれたように痛くなる。彼に倣って、私もゆっくりと目を閉じた。そうして、今朝の全校集会でテニス部の部長として全国大会ベスト8を報告した跡部の姿を思い起こす。全校生徒の様々な思いが渦巻く中で壇上に上がり、凛とした姿で、声で、淡々と感謝の意を述べる跡部の、夏休み前と違う少し雑に切りそろえられた髪を見て、私はただひたすらに涙がこぼれてしまいそうになるのを堪えていた。教室までのながい道のりで、彼にかける気の利いた言葉をいくつもいくつも考えたのに、いざ、教室で隣の席についた彼の精悍な面を前にしたら、用意した言葉などひとつ残らず消えてしまって、「大会、おつかれさま」というひどく陳腐な言葉が口をついて出た。

 先ほどとは違った沈黙に、ふたたび「失礼いたします」という穏やかな声が降りてきて、私も跡部も示し合わせたように顔をあげた。彼の前にはパスタが、わたしの前にはパンケーキが置かれ、サーヴを終えたウェイターが下がると、私たちはまたふたりきりで取り残される。跡部の前に置かれたジェノベーゼからは、この場に不似合いなほど美味しそうに湯気がたっていた。



 不意に呼ばれて跡部の顔を見たら、今日いちばんにまっすぐな瞳とぶつかる。それは、その場に縫いとめられてしまうような真剣さで、一生懸命、という跡部にはあまりにも似つかわしくない言葉が頭に浮かんだ。似つかわしくない。ほんとうに?

「いいか、もう一度だけ言う」

 跡部の気勢にあてられて、私は瞬きすら忘れていたかもしれない。周囲の一切の音が消えてなくなった。

「好きだ」

 ふたたび投げられた、ひどく残酷で甘い三文字。まるで幕が下りるように跡部の瞼が閉じられて、その三文字は8ビートの中に溶けていった。頭に、降参という言葉が浮かんで、消える。私はこのひとに降参するのだろうか。まだ見慣れない、粗くセットされた跡部の髪を見やる。あの暑い日、確かにこの夏は終わった。ほんとうに、そうおもった。それなのに、いま私と向き合っている彼は、あきらかに始まりの空気を纏っていて。
 そうだ。彼には間違いなく、またあの夏が訪れるのだろう。そのとき私は、どんな風に彼を見つめているのか。けれど、それを思い為すには、すこしばかりお腹が空き過ぎてしまっているのかもしれなかった。  ふと視線を落とせば、まあるく削られたバターが徐々に溶け出して、パンケーキのきつね色に染み込んでいくのがみえた。













190830......(高鳴るは、胸の鼓動) ♪プリズム/YUKI