遠いとおい頭上から、痛いほどの日射しが降り注いでいた。鳴り響く蝉たちの大合唱。一学期をしめくくる恒例の大掃除。三年生だけに割り当てられるプール掃除に選ばれれば、いわゆる『当たり』をひいたことになる。捲り上げられたスラックスから覗くたくましい足首と、普段は指定のソックスに隠された色とりどりの爪先とが、水と戯れることを口実に近づいてゆく事のできる唯一の場所。男の子たちの手中でホースが踊るたびに、女の子たちの黄色いブーイングが沸き立つ。
 ただ廊下側の二列に座っていたというだけであっさりと線を引かれ、『当たり』を掴まされてしまったわたしは、はしゃぐクラスメイトたちのなか、たったひとりの男がもたらす居心地の悪さのせいで、大はずれの気持ちで重たいデッキブラシを持て余していた。こんなことなら、昨日のうちに落としておくんだった。わたしの爪先を彩るミントグリーンが、あの子とお揃いだなんて気がつく前に。後悔は先に立たない。せめて、ついさっきまであちらの輪の中心にいたくせに、なぜか目の前でわたしなんかにオレンジのブリックパックを差し出す愚かな彼が気づいてしまわないことだけをひたすらに祈っていた。

、オレンジでええ?」
「いらない」

 わたしがぴしゃりと断ると、この愚かなひとは青天の霹靂といった表情をその面に浮かべ、行き場をなくした汗だくのパックジュースをあげたりさげたり。遠くからでも一目で気づく金色は、こんな無遠慮な距離では眩しくてたまらなかった。誰よりも走るのが早い彼が、じゃんけんで負けて自販機まで一走りさせられた。誰よりも善良で無神経な彼は、輪から外れたクラスメイトのぶんまでご丁寧に買ってきた。それだけ。ただそれだけのことなのに、わざわざ一番最後にわたしなんかのところにくるから悪いのだ。いまだやまない夏のたわむれで、熱く舞い上がる空気の中、一筋の視線だけが、氷点下でわたしを射抜いていた。この濡れたオレンジを、受け取っても、受け取らなくても。すべての出来事に意味をつけようとしてしまうのが十五歳のわたしたち。
 お願いだから、おもちゃを取られてしまったこどものようなむくれた表情はしまってよ。少なくとも、取りあげられてしまったのはあなたではないでしょう?

「ほんまかわいないなぁ」
「別に、忍足にかわいいなんて思われたくない」
「なんやそれ」

 あたらしい学年になってこの三ヶ月間、クラスの真ん中でもなく隅っこでもなく、適度な場所でやり過ごしてきた。教室の中心で華やかに笑っているくせに、分け隔てることを知らない彼とは、特別親しくもなくとりたてて不仲でもなく、適切な距離を保っていたはずだった。
 それなのに、あるときふと、気がついてしまったのだ。言い争えば痴話喧嘩、場を盛り上げれば夫婦漫才。そんな風に茶化されると決まって「こんなんと夫婦にせんといてよお」といって笑う可憐なあの子の凍てつくような視線に。

「やめてよ、彼女がみてる」
「かのじょて、」

 いまさらになって意味を理解した彼が大げさに肩をすくめて見せるので、夏にそぐわない重くて痛い感情を持て余した私は思わず非難めいた視線を投げてしまっていた。無神経な男を責める視線と、ほんの少しの焦燥をにじませたわざとらしい呆れ顔。いま、わたしたちが纏っているこれこそが、あの子が欲しくてほしくてたまらない彼との特別なのだということになど、気がつきたくなかったのに。

「あいつはそんなんとちゃうって」
「そう思ってるの、忍足だけだと思う」
「んなわけあるか。俺は、」
「ちょっとお、謙也ー!あんたいつまでさぼってんのー!」

 耳を塞いでしまおうとしたその瞬間、言いかけた言葉を途切れさせるには十分な音量が彼の名前を呼んだ。謙也、と。クラスメイトが揃って呼ぶ三文字。わたしがいちども声にのせたことのないその音。それによって、忍足はクラスメイトたちの視線を一身に受けることとなった。もちろん、その視線はこちらにも流れてきてしまう。いくつもの視線がわたしたちを見つけてしまったことに、脆弱なわたしの膝小僧はいまにも震えてしまいそうなのをぎりぎりのところで保っていた。

「せやかてー、がこれ受け取ってくれへんのやもん」
「ちょ、やめて」

 無神経な彼の言葉に、華やかな輪にどっと笑いがおこる。「それ謙也の奢りやでー」とか「謙也ぁ、おまえ嫌われとるんちゃうん」とか、忍足を茶化す声がいくつもあがって。でもその中には、はじめに彼の名前を呼んだあの子の声はなかった。そんなことばかりが気になって、そんなことばかりがとてつもなく恐ろしい。もはや、そちらへ視線を向けることすらできなくて、ただただ照りつける太陽を背負う彼が落とす、わずかな影を睨みつけていた。逃げ出したい。逃げ出したいけど、そんなことをしてしまえば、それがまたわたしたちの間に余計なものを産み落としてしまう。
 そんなことを思っていたら、ぐらり、と突然視界が揺れた。

「っと、だいじょぶか?」

 どうして、こんなにも簡単に攫ってしまえるの?揺らいだわたしの足元を見るより先に、彼の指先は剥き出しの二の腕を捉えていた。こんな炎天下で立ち尽くしているから。彼の差し出す水分をおとなしく受け取らないから。さっさとこの場所から離れてしまわないから。こんなことになってしまうの。こんなところで転んでしまったら?それを忍足に抱きかかえられでもしたら。わたしたちの関係は、きっとあっさり決めつけられてしまうだろう。わたしにも、あなたにも、そんな覚悟はないはずだ。

「忍足、はなして」
、」
「お願いだから、あっち戻って」

 雑なグリーンに塗られたプールサイドにいくつもできた水溜まりのうちのひとつ、わたしたちの爪先を濡らすそれに一滴の汗が落ちた。こんな、落ちた汗がどちらのものかもわからないような距離はぜったいに間違っている。彼を咎めるように呼んだ彼女の、祈るように秘めてきた甘い気持ちを、一瞬で踏みにじってしまうようなこんな距離は。

「なんでや」
「悪者になりたくないの」

 涙を流してしまいそうになるのをすんでのところで堪えて吐き出したわたしの言葉は、彼の顔に悲しみと後悔を浮かばせるに十分だった。わかってたくせに。あなたがわたしに抱く感情は、決してうつくしいものなどではないと。ただただ、あの子を無闇に傷つける、乱暴なものだと。そうしてそれはあなたが、長すぎる間あの子に特等席を許していたくせに、その関係に名前をつけることから逃げてきた報いなのだ。マイナスをつけない善良なんて、ただの臆病でしかない。そんな臆病者のくせに、クラスメイトたちの目の前で、わたしが彼女の席を奪うことを望むなんて身勝手すぎるでしょう?

「そんなら、俺の気持ちはどうなんねん」

 わたしには、あの子を突き落とす勇気も覚悟もない。あなたがその場所を空けておいてくれないならば、何もかも飲み込んで忘れてしまいたい。あなたの無神経がわたしの内側に刻み付ける、痛みも、苦しみも。そんなわたしの弱さを責める資格など、あなたにはないはずだ。
 秘めることを知らないあなたは、またそうやって、わたしからも、あの子からも、産まれる思慕を取り上げてしまう。そんなことひとつも気づかずに、ほら、

「俺はお前んこと、すきなんやぞ」

 両足に輝いていたはずのミントが、水溜まりに揺られて溶けだしてゆく。使い古されたプールサイドの緑色は、まるでドブのようで。
 またひとつ、どちらのものかわからない一滴がその水面を揺らした。









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