「おー、じゃー」

 からからと自転車を押しながら校門をくぐったところで、後ろからやる気のない声で名前を呼ばれて振り返ると、やる気のない姿勢で歩いてくるクラスメイトがいた。先日染め直したばかりなのだと聞いたプラチナが、まだ青い空の日差しに映えている。こんな時間に、珍しい。ひとりなのも。

「におーくん、部活は?」
「テスト前」

 仁王の薄い唇が綺麗に弧を描く。にやり。そう言われてみると、彼らがいつも背負うおっきなテニスバッグが、きょうはわたしとおんなしぺしゃんこの学生鞄だった。納得、という顔をしてみせると、くつくつと彼が笑う。そうして、帰宅部のわたしをからかってなのか「ほーんまに興味ないんじゃな」なんて言って意地悪な振りの表情をする。そんな顔のひとつですら、いまのわたしにはとっても貴重なものに思えた。教室の中でみるのとは違う。放課後ってとても自由だ。そんな自由を共有すること。とっても特別だ。そうおもった。たとえ、ほんのすこしだったとしても、それはわたしにとってとても大きな意味を持つと。

「せっかくやし、乗せて。おまえさんちまででいいけぇ」
「え?」

 また明日、とわたしがいうより先に、仁王の口がとんでもない提案を紡いだ。仁王の家とわたしの家が近いことは知っていた。でも、一緒に帰ったことなんて一度もなかった。それなのに。当たり前のように、そんなことを言うのだ。よいしょ、と仁王が跨って、手で支えていただけの自転車がぐらりと揺れた。咄嗟に、ぐっと力を込める。「ほれ、はよ乗らんと危ないぜよ」となんてことのないように言う彼は、ちっちゃなハブステップに器用に両足を乗せていた。
 突然の出来事に心臓がうるさくて、わけがわからなくて、けどそのことを気づかれたくなくて、慌てたようにわたしも跨りペダルに足をかけた。いつもより重たいそれを力を入れて漕ぎだす。ゆっくりと、音も立てず自転車は滑りだした。彼が器用にバランスをとるので、ふたりを乗せた自転車はぐらつきもせずにまっすぐ進んでゆく。どこも触れてなんかいないのに、10cm後ろに確かに感じる体温がどうしようもなく鼓動を急かす。できるだけ、意識を前に。まっすぐ、前に。

「のー、ー、おまえさんはー、何になら興味もつん?」

 わざとらしく間延びさせた低い声が後ろの近くから投げられて、届く。唐突に投げられた疑問に、またわたしは戸惑って、咄嗟に声が出なくなる。後ろで仁王が小さく笑ったのを感じた。「おまえさん、いっつもぼーっとしよるじゃろ」独特なイントネーションが耳をくすぐる。笑ってるような、真剣なような、不思議な声で。教室で馬鹿話をしている時とは違うその声は、気づかないように、気づかれないようにと秘めるわたしに、彼に憧れているのだという現実を痛切に思い知らせた。
 なんて意地の悪い問いかけをするのだ。あなたは。クラスメイトには似合わない、こんな無遠慮な距離で。わたしは、あなたに興味がある。あなたのことが、気になって、気になって。教室の隅で女の子の甘い声と戯れるあなたの声を、なんてことないふりで聞いている。体育の授業で気だるげに、だけど器用にシュートを決めたあなたにあがる黄色い声の外側で、その姿に見惚れている。気のないふりをしてテニスコートの横を通るとき、コートの中、相手を見据える眼のその鋭さに、わたしは呼吸が出来なく、なる。

「そんなこと、ないし」
「いーや、ある」
「…ないよ」
「おまえさん、俺が声かけてもいーっつも違うこと考えよる」

 わたしはどうしたって、彼を取り巻くその他大勢なんかにはなりたくなかった。なのに、仁王はいとも容易く、クラスメイトの気安さをふたりの間に持ち込んでくる。何にも興味なんかないのはあなたのほうだ。こんな風に、放課後の青空を共有することに、あなたは決して理由など付けないのだ。簡単なんだ。あなたにとっては、わたしの気を引くことなんて。
 ひとつ大きな風が吹いて、ハンドルが揺れる。うまくバランスを取った癖に、仁王はわざとらしくわたしのカーディガンの裾を摘んだ。あぶないあぶない、とかなんとか。いい加減にして欲しい。左の腰からじわりと熱が上がってくるのに、必死に気づかない振りをする。そうじゃなきゃ、こんなことに意味なんてないと思いながら、どうしようもない期待で舞い上がってしまいそうになるのだ。
 やわらかな風が頬を撫でた。落ち着け、わたし。

「とめて」
「ちょっ、」

 きぃっと嫌な音を立てて、自転車が急ブレーキで止まる。突然耳元で聞こえた声にびっくりしたのじゃない。突然腰にまわされた腕に、反射的にブレーキを握ってしまったのだ。危機回避の本能だ。きっとそうだ。
 仁王は自転車がとまったのをみとめると、するりと器用に自転車を降りた。危ないと、抗議をする隙も与えてもらえない。

「かわっちゃる」
「…え、いいよ、」
「いーから。はよ後ろ乗りんしゃい」

 ぽすん、とかごの中でわたしの鞄に重なる仁王の鞄。しっしっと手の甲を振ってわたしのことを退かそうとする彼に、少しだけ抗議の視線を送ると、彼は楽しそうに口元に笑みを浮かべた。早ぅ、と仁王が目配せをして、その琥珀色の瞳が持つ不思議な鋭さにわたしは息を呑む。
 毎日毎日屋外でスポーツをしているくせして未だに冬の白さを残している肌、運動部にしては華奢に見える制服に包まれた腕。そして、眼前の、なだらかなカーブを描く猫背の背中が思っていたよりもいくらか広いことに、どうしようもなく胸が打たれて、わたしはそっと唇を噛んだ。
 「いくぜよー」と呑気な声を出して、仁王は自転車を漕ぎだした。彼の後ろで揺られているからだの、その不安定さに、どうしてこんなことになってしまったんだと考える。けれど、透き通るような青い空の下、風を切って走る自転車と、人工的な色の髪をなびかせる仁王とのミスマッチさが可笑しくて、思わず口元が緩んだ。

「なーに笑っとるん」
「なんでもないよ。ほら、前見て。危ないよ」

 ゆっくりと振り返った仁王を諌めてから、その仕草がまるで慣れた日常のひとつみたいだったことに、言い知れない面映さを感じた。見慣れた住宅街を仁王の漕ぐ自転車が流れるように走っていく。どう考えたって、今この状況は非日常に違いないのに。ちらりと振り返った仁王の薄い唇が開き、仁王の視線がわたしを一瞬捉えた。そうして「俺は、おまえさんに興味もっとるよ」、と。意地悪く笑って前に向き直った仁王は、ペダルを漕ぐ足に力を込めて自転車の速度をあげた。そのどちらに驚いたのか思案することもなく、反射的にわたしは、彼のくたびれたカーディガンの端を掴んだ。

「しっかりつかまっときんしゃい」

 夕暮れの優しい風がふたりの頬を撫でた。その風になびくプラチナの後頭部を見つめて、ぐらりと揺らぐ気持ちを隠しきれずにいるこの顔が彼に気づかれないことに、心の底から安堵する。しかし、それと同時に、いっそこのうるさい心臓の音が彼にも伝わってしまえばいいのに、とも考えていた。そうすれば、わたしなんかの重さなど、なんてことのないように軽々と漕いでゆくこの人に、ほんの僅かでも衝撃を与えられるだろうに。そうして、聞くのだ。
 あなたの漕ぐこの自転車は、わたしたちをいったいどこに連れて行ってくれるの?と。









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