Gefall' ich dir nicht, dich fass' ich doch fest!
Nur fest, sonst fliess ich dir fort!







 オペラ鑑賞会だなんて名前だけで肩の凝りそうな行事は、わたしみたいな一般庶民の生徒にとって場違い以外の何物でもなかった。貴重な放課後を四日間も使って、総上演時間14時間を超える演目を鑑賞するなんて、とてもじゃないけど中学校の行事とは思えない。オペラ史に残るその壮大な神話を、なんと本物の歌声で、たった十五歳のわたしたちに鑑賞させる。そんなことが当たり前に出来てしまうのが氷帝学園なのだから嫌になる。
 そして、部活の顧問に呼び出されて時間をくっている間に、会場となっている劇場へ移動する貸し切りのバスに乗り遅れ、慌てて電車に飛び乗ったものの、追い打ちをかけるように駅から劇場までの道に迷ってしまった間抜けなわたしは、劇場の入口で担任にこってり絞られた後、クラスメイトたちとは離れた二階席へと座るよう指示されたのだ。開演まで10分をきった場内は、非日常にあてられた生徒たちの潜めた声が幾重にもかさなって、静かに、けれど落ち着きなくざわめく、不思議な空気で満ちていた。

 他の生徒のいない、明らかに特等席のような二階席はとても居心地が悪かった。ただでさえ慣れない空間で肩が凝るというのにいい加減にして欲しい。こんな日にわたしを呼び出した顧問に心の中で悪態をつきながら指示された座席へ向かうと、そこに見知った栗色を見つけた。どくん、と心臓が大きく脈を打つ。咄嗟に、今すぐこの場から逃げ出したい、と思った。長い足をすっと組んで、静かに目を伏せ座っている彼は、おおよそ十五歳なんかには見えない尊大さで、そのベルベットの椅子に当然のように馴染んでいた。二月ほど前に別れて以来話していない、かつての恋人。足を止めてしまったわたしの背中を押した担任の「、早く座りなさい」という声に、彼がゆっくりと視線を持ち上げてこちらを見る。夜更けの空みたいな深い群青がわたしを射抜いて、すっと整った眉がぴくりとわずかに歪んだ。

「…、」
「ごめん、あの、お邪魔…します、」

 やっとの思いでそれだけ言って、彼の隣の座席に、なるべく音を立てないように、なるべく振動が伝わらないように、そっと座った。静かに指定の鞄を置いて、ぴっちりと膝をつける。後方に離れたドア付近に先生たちが何人かいるだけで、このあたりの席には景吾しかいないようだった。下を見ると、一階席にはすべての生徒たちが揃って座っているようだ。その中に見慣れたクラスメイトの明るい頭が船を漕いでいるのを見つけて、ざわつくその場所が心底羨ましく思えた。

「なんでお前がここにいる?」

 眉を顰めた景吾がこちらに視線を投げる。開演間際の落ち着かなさとは違う、ぴんと張り詰めた空気。彼の支配する一体の緊張感で、この席はとてつもなく居心地が悪かった。とてもじゃないけど、目を見て話す勇気なんかない。

「おい、聞いてんのか」
「……遅れたから。バス、乗り遅れちゃって」
「は、どんだけモタモタしてんだよお前は」

 彼の威圧感にびくびくするわたしのことを尻目に、景吾は大きく溜息をついてから視線をまだ幕の開かないステージへと向けた。彼の恐ろしく整った横顔を盗み見て、その隙のない美しさと、圧倒的な存在感に、どこにいても、跡部景吾は跡部景吾なのだと実感する。三年生全員参加の、オペラ鑑賞会というひとつの学校行事なのに。そのすべてが彼のためだけに用意されたステージであるかの様に感じてしまうのだ。そんなことを考えてしまうと一瞬で、ワーグナーの楽劇は王におさめるための演目に、一階席の生徒たちは王に膝を折る民衆に、この席は彼のための玉座に、なる。美形揃いで有名なうちのテニス部の中でも、部長である彼の人気は群を抜いている。端正な顔立ちと、圧倒的なカリスマ性、他を寄せ付けないオーラ。ほんとうに、非の打ち所のないひとだった。



「もう、無理だよ、わたしには」
「…そうかよ」



 そんな完璧な彼の恋人でいることは、とてもわたしなんかにつとまるものではなかったのだと、わたしは思っていた。一年と少しのあいだ続いたふたりの関係に、先に根をあげたのはわたしだった。あの頃、景吾がわたしに優しくするたびに、景吾がわたしに厳しくするたびに、景吾がわたしを、対等に、対等なひとりの女の子として、扱うたびに。そのたびに、どうして自分なのか、わたしには何もないのに、というくさった気持ちがむくむくと湧いてきて、いつだってそれに呑み込まれてしまいそうになっていたのだった。それでも変わらずに、根気よく、わたしに手を差し伸べ続けてくれていた景吾から、わたしは逃げた。怖かった。いつか別れを告げられてしまうこと。信じて取った手を、放されてしまうこと。結局わたしは信じることが出来なかった。自分のことも、景吾のことも。それを全て、彼のその、誰にも真似できない精到さのせいにして、わたしは逃げた。そしていまも、逃げ続けている。
 何かを思案するようにいまだ開かない緞帳へ向けられていた景吾の視線が、すっとこちらへと流れてきた。こっそり彼を盗み見ながら油断していたわたしは、咄嗟の事に目を晒しそびれてしまう。長くて淡い睫毛の向こう側、強い群青が、わたしの瞳をじっと見つめている。その真っ直ぐな眼差しに、わたしの心臓は信じられないくらいうるさく鳴っていた。一刻もはやく逸らしたいのに、文字通り釘付けにされてしまっていて。わたしを見つめたまま、彼はその形の良い唇を開いて、低い声で問いかけた。

「なんだ、」
「いや、あの、」

 景吾の、有無を言わせないこの強い眼差しが好きだった。けれど、好きなぶんだけ、怖かった。

「なんだよ、言ってみろ」
「あの、あ、跡部くんは、どうしてこの席、なの、かな…って、」

 咄嗟に考えて放ったわたしの言葉に、彼は片眉を持ち上げて一瞬怪訝そうな表情をつくると、何かを言おうと口を開きかけた。しかしそれは、ゆっくりと暗くなりだす照明の中で鳴り響いた、開演を告げるブザーの音によって阻まれる。その音を合図にわあっと沸き起こる歓声と拍手。それによって、弾かれたようにわたしは景吾から目を逸し、ステージの方向へと振り返った。
 開いていく幕を見ながら、やっとわたしは詰めていた息をひとつ吐くことが出来る。けれど、瞬間、隣の席から素早く手が伸びてきて、わたしの腕を強く掴んだ。反射的に景吾の方を向くと、彼はわたしに射抜くような視線を向けていた。その瞳に滲んでいるのは、底知れない怒りのようでもあったし、何かを憂う寂しさのようでもあった。掴まれていた腕ごと、強引に体を引き寄せられて、懐かしい、彼の甘い香水の匂いが広がる。ぎり、と力を込められて、彼の手の中にある腕が痛んだけれど、彼の真剣な眼を見たら、痛いだなんて口が裂けても言えないと思った。そうして景吾は、ゆっくりと前奏を奏で始めたコントラバスの音色の中でも聞こえるような、低くて強い声を出した。

「…ずっと『景吾』だった癖して、今更『跡部くん』?」
「け、あ、あとべく…」
「ふざけんじゃねえよ」

 徐々に重なっていくホルンの音色がどんどん遠のいていくような気がして。景吾のその非の打ち所のない強さに身を委ねることも、差し出してくれた手を取って隣を歩くことも出来なかったあの時の自分。弱くて、愚かだったのかもしれない。間違ってたのかもしれない。けれどわたしは、あの時のわたしを責めることが出来ない。

 神話の中の王は、得てして過ちを犯し、彼の世界の滅亡を導くけれど、目の前のこの王様のようなひとは、決して、決して、間違えたりはしないだろう。自分の望むものを手に入れるために、努力を惜しまず、たとえ手段を選ばなくとも、誰かを貶めるようなことはしない。ぜったいに、しない。いつだって堂々と、その群青をたたえているのだ。その群青が、いま、悲痛な色を灯して、わたしを見つめている。オーケストラの全奏によるクレッシェンドの中で、景吾はゆっくりとわたしに顔を寄せた。そうして彼はわたしの耳元で声を潜め、けれどもそこにとても強い意志を込めて、「俺はまだ、お前のことを放してやるつもりはないぜ」と囁いた。それと同時にわたしの腕を掴んでいた手が緩められ、やがて、その手は静かに離れていく。そうして、ふっ、と力を抜いて笑った景吾の視線が、ゆっくりとステージへと戻っていった。
 前奏の終わった舞台上にライトがあたり、深い川底で女達が歌い出す。その歌声を聞きながらわたしは、少しでも油断すると湧き出してしまいそうな涙を必死に、ひっしに、噛み殺した。
 そういうならばあなたは、栄光も、強い力も、そして愛さえも。全てを一緒くたにして、手に入れられるのだということを、その手でここに証明して見せてよと、彼のうつくしい横顔を、ほとんど祈るような気持ちで見ていた。









150419......タイトルはワーグナーのオペラ『ニーベルングの指環』の序幕から