夏の西陽はまるで何か恨みでもあるかのような強さでわたしの部屋に射し込んでいた。毎日を過ごしている自分の部屋だというのになぜか感傷的な気持ちにさせられて、西へ向く窓にカーテンを引かずに家を出てしまった今朝の自分を恨んだ。この暑い中をやっとの思いで帰ってきたのに、部屋に辿りついてまでこの陽射しを浴びなければならないなんて。煌々と降り注いで室内を隠しているこの光線を絶つためにそっとカーテンを引けば、一番大きな光源を失った部屋は反動で一気に暗くなったように思えた。もちろん本当に暗いはずはなく、慣れた目には室内の様子が映りだす。そこで初めて、自分の部屋にあるはずのない鮮やかな色と、動いているはずのない冷房とに気がついた。

「おかえり、遅かったな」
「…なにしてるの?」

 随分な言い草、と軽く笑って天井を仰いだ彼はすっと目を細めてこちらに視線を移す。

「お、うまそーなの持ってんじゃん」

 ブン太はわたしの手に下がったコンビニの袋をみとめ、ちっとも心のこもらない声でそんな言葉を投げた。この暑さでびっしょりと汗をかいたパックのココアは、ぴたりとビニールに張り付いてその存在を主張していた。なんとなくまっすぐ帰るのが癪で立ち寄ったコンビニで、なんにも買わないのも何だからと適当に選ばれただけのココアは、結局うちまで口をつけられずにやってきてしまったのだ。だって、こんなに暑いのに、こんなに甘ったるいの飲む気なんておきないの。

「…あげる」
「んだよ、飲みたくて買ったんじゃねぇの?」
「いい」

 自分から欲しそうな素振りをしたくせに、なぜだか少し怪訝そうな顔をする。小さく息を吐いたブン太は、聞こえるか聞こえないかくらいの声で「サンキュ」と呟いた。閉めたカーテンの隙間から漏れてる西陽が、彼の髪を、この夏少し伸びたその襟足を、キラキラと照らしていた。部活が忙しくて髪を切りに行く暇もないなんて、本当にそんなことがあるんだろうか。ベッドに寄りかかるようにして座っている彼と少しだけ距離を取って右側に腰掛ける。ぎしりとベッドが沈み、僅かに彼の白いシャツの肩口を巻き添えにしたけれど、彼は特に気にした様子もなく静かにストローを吸ってココアを飲み始めた。わたしの中のブン太は、甘いものなんて嫌いそうなのに。

 エアコンから少し強めに吹き出す風が不意に攫った髪を撫でつける。いったい何度に設定したんだろう。少し肌寒くて、ここはわたしの部屋なのに、なぜだか寒いと言い出すことは憚られた。彼の背中はどこか不機嫌に見えて、先程からわたしは投げかけるべき疑問をいくつも呑み込んでいる。それはたとえば、彼がなぜわたしの部屋にきているのかとか、どこでわたしを追い抜いてしまったのかとか、とても些末なこと。それから、かわいいあの子はどうしたのかという、いかにも彼の不機嫌を誘いそうなこと。

「なあ、今日部活休みって知らなかったっけ」

 早口気味に投げられたブン太の声はやはり少し怒っている風だった。「知ってた」と答えれば、あたかも用意されていたかのように短い溜息をつかれ、その上すっかり黙り込まれてしまった。押し黙る横顔に質問を投げかけるのはどうも苦手だ。すっかり大人びたその横顔に幼い頃からいつも隣にあった無邪気さを探すけれど、そんなもの到底見つけることは出来なくて。エアコンだけが間抜けな音をたてて規則的に風を吐き出している。
 本当は無理矢理にでもこの沈黙を破ってしまいたいほど、言伝を頼まれたあの子のことが気になっていた。可愛らしい子だった。「丸井くんに、伝えて欲しいの」と彼を中庭に呼び出したあの子。人を介することがズルだとは思わない。ただ、初めてのことだったからすこし驚いただけだ。心が揺れたのはそれだけの理由だ。彼女からの言伝をそれとなくブン太に伝えたら、彼は素っ気ない態度で「その子可愛い?」なんて言ったから。素直に可愛かったよと答えたわたしは、再びの素っ気ない声で「じゃあ行くって言っといて」と投げつけてさっさと背を向けてしまった彼にさらに驚くことになったのだ。あれは一時間も二時間も前のことなのに、この沈黙があの背中の延長にある気がして、なんとはなしに不安な気持ちになっている。こんなこと口が裂けても言えないけれど、部活のない日は少しの寄り道をして一緒に帰るという幼馴染みの暗黙を破ったのは、どちらかといえば呼び出された彼の方だと思うのだ。


「そういやお前、チャリどーしたんだよ」
「…わかんない」

 わたしが破りあぐねていた沈黙を、ブン太がせっかくあっさりと破ってくれたにもかかわらず、わたしの用意した答えはまたも彼を不機嫌にしてしまったみたいだった。はぁ?と強められた語気におきまりの溜息で、いまなお彼はふたりの空気を支配している。それは予想外の問いかけだった。
 自転車なら先日盗まれてしまった。帰ろうとしたらなくなっていたのだ。確かに鍵はかけていたと思ったのだが、駐め慣れた定位置からすっかりいなくなっていたそれは、今頃どこかの誰かを乗せて走っているのかも知れない。通学は少し不便になってしまったけれど、返ってくる見込みのないものを探す気にはどうにもなれなかった。

「ちゃんと盗難届出したのかよ」
「え、出してないよ」
「出してない?」
「…だってもう戻ってこないよ、新しいの買った方が早い」

 今日のわたしは何を言っても駄目みたいで、反論の代わりに今日一番の深い溜息が返ってくる。さっきからブン太の機嫌を損ねるばかりで、ちっとも会話が先へと進まない。どれだけ新しい話題を取り出してきたとて、いまのわたしたちには何一つ意味がないように思えた。彼は何をそんなに怒っているのだろうか。だいたい、わたしの自転車が失くなろうとブン太には関係ない。彼の言うように盗難届を出して簡単に返ってきた話などは聞いたこともないし、何にだって言えることだけれど、そうやって返ってくるかもしれないと期待するから後々がっかりする羽目になる。「愛着とかねぇのかよ」とブン太は言うけれど、期待するほど愛着が湧いてくる錯覚をして、いっそう新しいものを買いづらくなってしまう。
 だって失くなってしまった自転車はもうわたしのことを運んではくれないし、いなくなってしまった人はもうわたしに何も与えてくれない。ないものはない。それだったら、期待も執着も、しないほうが自分のためだ。それはもう随分と前からわたしの中で当たり前の考えになっていて、そのことをブン太が好んでいないのは何となく分かっていた。そしてそれが、年齢を重ねるにつれてより強くなっているということも。

 彼は、自分で欲しいと思った物は、自分の手で、そしてあるときはそこにあるものならば何でも利用して、必ずといっていいほど確実に手に入れてきたように思う。そしてその反面、いらないと感じた物を手放すことにも躊躇いがなかった。愛着がどうのと彼は言うけれど、ブン太にとっての愛着って、いったいどんな物なのだろうか。だってブン太の周りにある物は常に彼に取捨選択されている。彼はいつも自分の欲に正直で、感情に素直だった。彼が何かを選び、手にする基準が愛着だなんて、まったくもって信じがたい。


「あとさ、んだよあれ」
「あれ?」
「C組の女。ああゆうのやめろって」

 不意の言葉に心臓が大きく跳ねた。ずっと気にしていたのがばれたのだろうか。いや、そんな。おもわず膝の上で握っていた手に力が入った。冷房で肌寒いはずなのに、背中を汗が伝い落ちる。そもそも、こんなに動揺することなどないはずなのに。眉根を寄せるブン太の顔がさっき感じた何倍も大人に見えて、なぜだか息が苦しかった。
 ブン太は昔から言葉遣いが少し乱暴で、女の子を泣かせてしまうことも少なくなかった。喧嘩も強くて、いつもクラスの中心にいて、悪ガキで、いつも最後にはこっぴどく叱られていた。わたしはそれを、彼の隣でずっと見てきた。どんなときも、たとえわたしが彼に責められているようなときですら、一歩離れてみてみると、ブン太はわたしの味方だった。幼馴染みって、そういうものなんだと思っていた。背がわたしを追い越しても、声が低く大人びても、髪の色が鮮やかなワインレッドになっても、わたしの中の彼は変わらずいつまでも幼馴染みの丸井ブン太だ。

「つーかさ、お前はヤじゃないわけ?」
「…何が」
「告白の仲介。俺なら絶対やんねーけど、お前への仲介なんて」
「そんなの…」

 ないよ。わかってるくせに。わたしはあなたと違ってクラスの中心にもならないし、まんべんなくみんなと仲良くして、右でも左でも中立でもない外側で、そっと過ごしているんだ。誰を特別にもしないし誰の特別にもされない。期待しないし、執着しない。あなたがそれを疎んでいることは、なんとなく気づいているけれど。それでも、

「あるんだよ」

 斜め上へと首を傾けてこちらをを見上げるブン太の視線が怖くて、不自然にならないように目を逸らした。問い詰めるような目。見透かすような目。意志の強く滲む、彼の目だ。見つめられている左半身が痛い。彼が纏っていた不機嫌はもうほとんど苛立ちに変わっているようだった。さっきから何度も繰り返している沈黙だけれど、これは今度こそ、息の出来ないような沈黙だ。ない、とどうして言い切れよう。彼のこの目を前にして、唇すら動かないのに。

「だから、俺は絶対やんねえって言ってんだろ」

 ぞくりと、痺れるような感覚が背中を駆け上がる。彼の伸びた襟足がエアコンの風に揺らされるのを視界の端に捉えて、それでもなお、彼の目を見ることが出来ない。休み時間の廊下で、あんなに素っ気ない態度を取ったくせに、今頃そんな風に語気を強めるなんてずるい。何にも言い返せない自分が情けなくて、けれどなんて返したらいいのかなんてちっとも思いつきやしなくて、意味もなく、記憶の中の幼いわたしに笑いかけるブン太を必死に思い出そうとしていた。

「お前は、これだけは絶対手放したくないもんてないわけ?」

 ブン太がベッドに置いたてのひらを握りしめて掴んだシーツがスカートから伸びた太腿を微かに擦り、部屋の空気が動く。少し甘い、けれどちゃんと男の子らしさのある匂いが鼻をくすぐる。動けない、言い返せない、情けない。言わなきゃわかんねぇだろと少しふてくされたような顔をして、けれど無理に聞き出そうとせずに傍にいてくれた日のこと。叱られて、悔しくて、そんなブン太を見ておろおろしてるわたしに、泣きそびれたといった風な呆れ顔で笑いかけてくれた日のこと。毎日会わなくなったって、当たり前のような顔で隣に並んで帰ることも。

「そんなのないよ。なんにもない」
「っ俺は…!」

 だって、何がなくなってしまっても、誰がいなくなってしまっても。

「なあ、頼むから、そんな哀しいこと言うなよ」

 君だけはずっとそばにいてくれる、という甘えた心が浮かんで、捉えた視界の中でブン太の瞳が揺れる。あ、泣きそうだ。他人事のようにそんなことを思った。









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